2014年6月25日(水)
原発のアキレス腱は何か?
日本を沈没させるのは簡単だ!

 『日本を沈没させるのは簡単だ!』と言うと、不謹慎なことを言うな!とおしかりを受けるかもしれない。しかし、それは事実である。

『一体、どうすれば日本を潰せるか?』である。

 現在、日本の原子力発電所は全部で54基存在する。そのすべてが今、稼働を停止している。稼働が停止している原子力発電所は安全だと思えるが、実は非常に
大きな危険性をはらんでいる。

 原発はウラン燃料を使い、ウラン原子核が核分裂反応して出る巨大な熱エネルギーで水を沸騰させ、蒸気でタービンを回し、発電機を回し電気を生み出している。
蒸気でタービンを回し、発電することは火力発電と全く変わりがない。

火力発電所は熱源として化石燃料である石炭、石油、天然ガスなどをボイラーで燃やして燃焼熱で蒸気を造る。化石燃料は地球の太古に栄えた動植物の大量の死骸が変質し、炭化水素になったモノ。

これが燃やすと、酸素と結合し、水と二酸化炭素に変わる。その際に熱を出す。その熱を利用している。だから燃料の供給を止めれば、燃焼がストップして温度が下がり、発電所は安全に停止する。

これに対し、原発はどうか?
火力発電所のボイラーに相当する部分が原子炉であり、とてつもない分厚い鋼鉄製の容器(鉄の厚みは30cm以上)の中にウラン燃料棒を何十本も入れられている。

余談だが、この鋼鉄製の炉心は日本製鋼所と言う会社が独占的に造っている。日本製鋼所は戦時中は大砲の砲身を造っていた会社で、分厚い鋼鉄製のモノを造る技術では右に出るものはない。まさに素晴らしいモノづくりの会社である。

本論に戻ると、ウランはペレット状に加工され、ジルコニュウムと呼ばれる金属管内に収納され、それが燃料棒と呼ばれる。このウラン燃料棒からは、常に中性子が出ている。この中性子がある数になると隣のウラン原子をたたくことで、ウラン原子核が崩壊し、新しい中性子が飛び出す。もともと少し出ていた中性子の数がネズミ算式に増え、ドンドン数を増す。

 ある一定の発熱量になった状態が臨界状態で、それ以上にならないように制御する。それに従ってウラン原子は原子核が崩壊しプルトニュウムやその他の原子に変わる。これを『核分裂』と呼んでいる。その際に、ごくわずかの重さ(質量)が減る。
この減った質量が巨大な熱エネルギーとなる。その際、発生するエネルギーの量は
アインシュタインの相対性理論で示された。
  発熱量=(質量が減った分)×(光速)の2乗
と言うとてつもない大きい熱量となる。
 光速は、3×(10)8乗m/秒 だから、その2乗になるので、ウランの原子核分裂でわずか質量が減っても、そこから発生するエネルギーは巨大なものになる。

 燃料棒のウランからは常にある量の中性子が出ている。この中性子の数を増やさなければ、大きな熱源とはならない。自然崩壊熱が出ているだけである。

 原子力発電所内に使わない、又は使い終えた、又は点検のため原子炉から取り出された燃料棒が、純水で満たされたプールの中に漬けて保管している。

 水に漬けておくと、中性子は水に吸収されたり、飛び出す速度が遅くなるので、他の燃料棒のウラン原子をたたく数やたたく力が弱くなり、核分裂反応が起きない。
 だから水温が大きくは上昇しない。ウランがおとなしい状態で管理ができる。
 ウラン原子は原子量が235という大きな原子で、大きな原子は基本的に原子核崩壊が起きやすい。ウランはその典型で、自然界に於いても、ウラン鉱石やウラン鉱では自然の状態で核がごくわずか徐々に崩壊している。この際に出る崩壊熱はこれは大きな熱量ではない。だから水に浸して、少し水を循環させておけば大丈夫である。

 しかし、一たび、この燃料保管プールの水がなくなると、ウラン燃料棒から放出される中性子が直接近くのウラン原子や、隣の燃料棒のウラン原子をたたくので、中性子の数が増えてゆき、熱くなってゆく。

 そうすれば、これを冷やす水がなければ、ドンドン熱が上がり続け、燃料棒の材料の融点である1700度を超え、燃料棒が溶けだす。
 燃料保管プールは上部がオープンな構造で、原子炉というとてつもない分厚い鉄の炉心と、その周囲を数mの分厚いコンクリートの原子炉の囲いが全くない状態で燃料棒が溶け出す(メルトダウンが起きる)と膨大な放射能が空間に放出される。

 福島第一原子力発電所の第4号機が実は一番危ない状態だった。
 水素爆発で1、2、3、4号機の建屋は大きく破壊されたが、4号機は当時、定期点検のため、原子炉(炉心)から燃料棒を抜き取って、建屋内の燃料保管プールに移していた。

 このプールが地震や水素爆発でひびが入り、水が漏れ出て、なくなってしまっていたら、東北一帯は高濃度の放射能汚染で長期間、人は近づけない、住めない状況になるところだった。多分、東京でも高濃度に汚染されたかもしれない。

 幸いにも、この保管プールは地震の揺れにも耐え、水素爆発の衝撃にも耐えて、水が漏れなかったので、かろうじて最悪の事態は回避できた。
これは全く『神様のご加護』と言うしかない。

 もし、このプールに大きなひびが入り、水が漏れ出て、水を補給しても間に合わないと言う事態になっていたら、手の打ちようがない状態になっていた。
何とか耐えてくれたのだ!。

 これを『日本の技術の優秀さや、安全性の高さ』と言うには、実に不謹慎で傲慢な態度だと思う。もう少し地震の揺れが大きかったり、水素爆発の影響がもっと深刻で
あれば、プールの水がなくなった可能性は十分ある。

さて、本題は『原発のアキレス腱は何か』だが、副題は、『日本を沈没させるのは簡単だ!』とした。

日本には54基の原発があり、インターネットでも所在地が詳細に公開されている。

 日本と戦争する相手国は飛行機や軍艦などは不要だと言える。沢山の原発の建屋に照準を定めて、ロケット砲を打ちこめば、原発は制御不能に陥る。原発のシステムが壊れれば冷却が不能になる。

 それよりこわいのは、上部が完全に解放されている原発所内の燃料保管プールに照準を当ててミサイル攻撃をされること。
 プールの水がなくなれば、数時間後にはメルトダウンが起きて広大な土地に高濃度の放射能(放射線物質)が散らばる。

 原発には大量の燃料棒が入っている。
1基で100万KW以上の発電をする原発がたくさん存在する。

 鉄腕アトムは10万馬力だったが、原発は1基で100万馬力、鉄腕アトムの10倍以上のエネルギーを生み出している。

そういう物騒な巨大な設備を54基ももっていることをどう考えればいいか?

 専門家や電力会社は原発の安全性の高さを盛んに訴えて、再稼働をさせたがっている。システムの安全性は、確かに人知で高めることができる。
もちろんコストの制約があるので、完全な安全はあり得ない。

 しかし、もし、システムの安全が確保できたとしても、テロ攻撃など、人為的な攻撃にさらされた場合、安全はどう担保できるのだろうか?

 東アジア地域は何となく物騒な様相を呈してきた。
原発推進派は、この問題についてどう考えているのだろうか?

『そんなことは私の知ったことではない!』では済まされない。 



6月23日(月)
イタリアの憲法も戦争放棄を謳っています。

 日本は安倍内閣が盛んに集団的自衛権行使と、さらに最近は集団安全保障まで踏みこんだ発言をして、世間を騒がせています。
 日本国憲法 第9条は世界に誇る『戦争放棄』を明確に歌い上げたほかの国にはないものだと今まで思ってきました。
 いま、憲法解釈が議論の的になり、新聞やテレビを取り上げられています。
そこで、イタリアの憲法でも『戦争放棄』を謳っていることを初めて知りました。
このことについて、もう少し詳しく調べてみました。

 先の大戦、第2次世界大戦で敗戦国となったドイツ、イタリア、日本は大きな犠牲を払いました。特に日本は人類史上初めて武器として2発の原子爆弾の投下を受け、非常に悲惨な被害を蒙りました。これは非人道的な武器で、その後の戦争に対する大きな足かせになりました。

 そして、日本は終戦後、平和憲法を制定し、第9条に明確に『戦争放棄』を謳いあげました。

 日本国憲法 第9条の条文は、
 1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動た  る戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段として   は、永久にこれを放棄する。

 2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
  国の交戦権は、これを認めない。


 この条文は、格調が高く、実に名文だと思う。
 中学校時代に教えられたと記憶しているが、小学校高学年だったかもしれない。
この条文を素直に読めば、日本人なら、『武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』と言う文言はどう考えても集団的自衛権や集団安全保障のための武力行使は相いれない。

 イタリアでは憲法11条で『戦争放棄』を定めていたことを初めて知った。
その条文を見てみよう。

 イタリア国憲法 第11条(戦争の制限および国際平和の促進)
 イタリアは、他人民の自由に対する攻撃の手段としての戦争及び国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する。
国家間の平和と正義を保障する体制に必要ならば、他の国々と同等の条件の下で、主権の制限に同意する。この目的を持つ国際組織を促進し支援する。


少し日本国憲法とニュアンスが違うように思うが、戦争放棄を謳っていることは事実だ。
しかし、歴代のイタリア政府は他国に対し、人道的介入や復興支援などと言う理由で、憲法解釈を拡大し、他国への派兵を繰り返してきた。
 これにより、平和主義の理念は変質し、結果として他国の戦地で若者が多数犠牲になって戦死している。負傷者はさらに多数にのぼる。

 今、憲法解釈を変えて、集団的自衛権の行使のために武器使用ができる、また紛争地に出かけられるということになれば、憲法で謳っている『武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』という項目に反する行為と言える。

 戦場に行き、戦いたければ憲法を書き直せばいい。
堂々と、『国際紛争を解決するために交戦権を認め、これを通じて世界平和に寄与する』ぐらいの表現に変えるなら、まだ分かりやすい。

 憲法をそのままにして、武力行使に参加するのは、いくら集団的自衛権や集団安全保障という枕言葉がついても認められない。

 そして、今、議論されている集団的自衛権の行使や、集団安全保障の行為を行うならば、必ず自衛隊に戦死者や負傷者が出る。その場合、『戦争放棄』を謳っている現憲法下で、不幸にして戦場で死んだ自衛官は『事故死なのか?』 まさか『戦死』とは言えないはずだ。『戦争はしない』と謳っているのだから・・。


 23日の朝日新聞朝刊トップに、最新の内閣支持率が掲載されている。安倍内閣は今まで高い支持率をキープしてきたが、今回の調査によると、43%(前回は49%)と大きく低下した。内容を見ると、集団的自衛権の行使容認については議論不足と言っている人は78%に上る。 小生も全くそのとおりだと思う。

 よく議論を深め、その上で、現憲法に不備や改める内容があれば堂々と国民的議論をして、改憲するならすればいい。
 内閣の閣議決定で、こういう国の根幹にかかわることを決めるべき内容ではない。

 安倍さんは、なぜそんなに急いで集団的自衛権の行使容認をしたいのか?

 これは一節によれば、安倍さんの政治信条として、@経済の立て直し、A集団的自衛権行使容認を実現 と言う2つの大きな命題(信条)を持っていると言われている。この二つが実現すれば、安倍さんは本望と言う訳か?

 もう一つの背景は、同盟国であるアメリカから盛んに日本が集団的自衛権の行使や、国連安全保障会議で決議された場合には集団安全保障に参加するよう要請されているからだと思う。

 この内容は他国との交渉事(外交案件)だから表面には出せないことである。
一流新聞もテレビでも敢えてそういうことは言わない。

 要は安倍さんは自分がやりたいことと、同盟国アメリカからの要請の二つが重なって、テンションが上がっているということだと解釈している。 

 しかし、今回初めて分かったことは、イタリアが『戦争放棄』を憲法で規定しているという事実である。

 最近、どうも世界は不安定な方向に突き進んでいるように感じる。
冷戦時代は、アメリカとソヴィエト連邦の二大大国がけん制し合い、『Balance of terror』と呼ばれた時が長く続いた。
 原子爆弾や水素爆弾の保有競争をし、大陸間弾道弾ICBMを地下格納庫に隠して、互いに対峙し合った。その核戦争の恐怖のバランスの上に、何とか平穏が維持されていた時代だった。
その後、ソ連が崩壊し、ロシアになって、アメリカが世界の警察と言われる時代になった。そして、ヴェトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争と続くが、ヴェトナム戦争の頃より戦争の仕方が大きく変わってきた。
正面切って戦うという戦術から、ゲリラ戦が主体になってきた。それに加えて民衆か兵士か区分がつかないというゲリラ戦は兵士にとっては非常に精神的に疲れる。
味方なのか、敵なのかが区別できない。だから誤爆や殺戮が繰り返される。
そうすれば民衆はますます高揚して、反撃する。

最近はそういう戦術の変化に加え、宗教の宗派間の戦いが目立ってきた。特にイスラム教は宗派間の争いで、イスラム教徒同士が殺戮を繰り返している。

お互いに家を焼き払い、建物を爆破し、今まで気づいてきた遺産を自ら破壊している。そういう無意味な戦いが中東を中心に続いている。

 当事者間には、戦うための大義があるのだろうが、世界平和や人類愛と言う見方で考えると、そこに戦争するという大義は見えない。
むなしい殺戮だけが繰り返されるだけである。

 そういう中に日本も飛び込もうとしている。
一旦、仲間に入ると、相手からは敵とみなされる。日本は平和な国だったが、相手から敵国とみなされれば、日本の各地で爆破やテロ攻撃が起きないとは言えない。
そういう脅威を覚悟して、集団的自衛権の行使や、集団安全保障への参加を決意しているのだろうか。

 とてもそうは思えない!!



6月21日(土)
集団的自衛権と集団安全保障は何が違うのか?

大変なことが起きそうな予感がする。6月15日にも書いたが、安倍総理は数を力に
憲法を変えることなく、憲法の解釈を変えることで、終戦後、守ってきた憲法9条の考え方を 一気に変えようとしている。これに公明党が竿をさせるかどうか? どうも
危うくなってきている。
憲法を変えて、国のスタンスや方針を変えることは反対ではない。しかし、憲法と言う国の根幹の考え方を解釈の変更で、行動を変えることができるようになれば、何が起きるか国民には分からない。時の政権の思うままとなる。
集団的自衛権も、集団安全保障もやりたければ、まず現行憲法を変えることに着手して国民の信を問うことから始めるべきだ。順序が逆になっていますよ。安倍さん。
面倒なことは後回しにして、とにかくやれるようにしたいという思惑が見え透いている。
朝日新聞朝刊によると、

集団的自衛権とは、密接な関係にある他国が攻撃された場合、ともに反撃する権利。今までの内閣は、日本は集団的自衛権は持っているが、行使は憲法上許されないという解釈になっていた。

集団安全保障とは、侵略などをした国に、国連加盟国が国連安全保障委員会決議に基づく多国籍軍などを結成し、制裁を加えること。

国の根幹にかかわることを拙速に、国会の会期末にバタバタの状態で決めるのは、まったく良識があるとは言えない。



6月15日(日)
安倍総理、少し拙速ではありませんか?

 国会が騒がしくなっています。それも与党と野党の対立ではなく、与党内の自民党と
公明党が丁々発止しているようです。課題は安倍総理が積年の思いである集団的自衛権行使の容認を今国会の会期中に閣議決定したいという強い思いです。
事の善悪はいろいろな背景や国際事情がありますので、一概に良い悪いは言えないと思います。慎重に判断しなければならない重要なことです。

第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結し、世界が平和になりました。その時定められた日本国憲法は第9条で、世界に誇る戦争放棄を謳いあげました。昭和から平成になりすでに26年、終戦後70年になろうとしています。
その間、ベトナム戦争、イランイラク戦争、アフガニスタンの内戦など、アメリカやヨーロッパ諸国は他国の出来事に対して兵士を送り、何千人もの若者の命を犠牲にしてきました。その命の上に現在の世界の平和が保たれているかと言うと、必ずしもそうではないような気がします。大国の国益を反映した戦争が続いているような気がします。そのことの是非はさておき、集団的自衛権の行使を容認するという分かりにくい内容を閣議決定し、行使ができる準備をしたいということです。
 
 日本の憲法は平和憲法で世界に誇れるものでした。しかし、最近、中国の経済成長や韓国や北朝鮮の動きを見ていると、ただ単にわが国が平和憲法のもとで、何をされても手出しはしないということでことが済まなくなってきているようにも思われます。
自分だけいい子になって、殴られても我慢できるということは立派かもしれませんが、
個人と国とは立場が違います。

 そういう情勢の中で、安倍総理は念願の集団的自衛権の行使容認を進めたいという強い意志が表現され、公明党に攻め寄っているという姿が見えます。
平和主義を標榜している公明党がここ一番、どういう立場をとるか大変興味があります。ここで徹底して反対すれば連立与党を脱することを意味します。どうやら公明党は分かりにくい解釈で、安倍総理の集団的自衛の行使容認を飲み込むようです。
要は政権与党がすっかり定着し、与党のうまい味に慣れてしまったのでしょう。

 国の憲法はその国の基本の考え方を明文化したものです。
これは民間企業(会社)では、社是や経営理念や経営基本方針というもので、会社ごとにその設立の主旨をまとめ上げたものです。
この経営理念を変えるには、会社の存続を問う重要な意義があります。
松下幸之助さんは、経営理念に反するなら、会社を潰してもよいとまで言われました。
松下電器の経営理念は綱領として定められています。

国の場合は憲法で、その9条に戦争放棄を謳っているのです。

集団的自衛権の行使をすれば、同盟国が相手国にやられている時は助けることになります。これの是非は別として、戦争は平時ではありませんから、人と人の殺し合いです。互いに自分たちの言い分(正義)を持って戦います。
それが領土問題であったり、宗教上の思想信条であったり、民族間の争いであったりします。
それはそれとして、戦いの場に出かけて、戦いに加担するということは、必ず戦死者が出ます。アメリカは他国のために数千人の若者が無くなっているのです。
日本の自衛隊は幸い今まで事故で亡くなった件は別として、戦争で戦って死んだということは第二次大戦以降ありません。
しかし、この集団的自衛権の行使をすることは戦場に出かけることですから、必ず死者が出ます。自衛隊員は今までの立場と全く違ったものになります。

人の命を懸けるにはそれなりの大義名分がなければなりません。
それは国の方針として規定している憲法をきちんと整備して、日本はこういう場合はこう戦う、こういう戦争はしないと明確にするべきです。その上で戦場に出かける必然性があれば、それは日本の威信と名誉にかけて戦うことも必要でしょう。
今の議論は、憲法9条で規定している戦争放棄をないがしろにし、解釈を変えて都合のいいように対応できるようにするということです。
これは大変危険です。姑息なやり方です。
正々堂々と国民全体で議論して、憲法を変えるならこう変えるという合意をして改憲すればいいと思います。
平和憲法をそのままにして、解釈を変えて敵と向かうというのは危なくて仕方なく思います。武器の使用は制限される、こういう場合は武器を使ってもいいなどと言うばかげた規定は意味がありません。理解できません。
なぜなら戦場は殺し合いの場だからです。そこに平時の理性はありません。勝つか負けるか、相手を殺さないと自分が殺される場なのです。
今の議論を聞いていると机上論で、きれいごとです。
そういうえらい先生方は戦場に行かないので、自分の都合のいい議論をすればいいのですが、これが一度決まれば、現場の自衛隊員は命を懸けることになります。

本当に今までの方針と違う戦場に踏み込む危険と隣り合わせる行為が国民の総論として議論しないで決めていいものでしょうか?
内容の賛否はともかくとして、進め方に強引さと傲慢さが滲んでいるように思われます。自民党はもっと謙虚になるべきでしょう。
いくら今、国会で圧勝して大多数を握っているとはいえ、数を背景にした強引な進め方は賛成ができません。
野党の民主党は今何をしているのか、全く見えません。その他野党もよく分かりません。
安倍さんが集団的自衛権の行使容認、憲法改正をやりたいのなら、しっかりそういう手順を踏めばいいのです。何もそのことについて反対しているわけではありません。

厄介な国民的議論は避けて、拙速に事を進めようとしていることに反対しているのです。



3月30日(日)
おかしな予算執行ノルマ?

  3月26日だったと思いますが、朝日新聞におかしな記事が掲載されていましたよ。
『予算執行、異例のノルマ」というタイトルです。
副題は『上半期6割、公共事業速め景気対策となっています。

 以下、本文を紹介します。
 政府は20日に成立した2014年度当初予算の事業を速く進めるため「9月末までに6割以上の契約を終える」などの予算執行の目標を設ける。金額では、6月末までに4割以上を使うことを目標にする。今年度補正予算と併せて前倒しで予算を使い、4月の消費税増税後の景気の落ち込みを避ける狙いだ。月内にも発表する。
 数値目標の対象となるのは、新年度予算総額の総額95兆9千億円のうち、公共事業を中心とした約12兆円。自治体や各省庁の基金を通じた事業も目標に沿って、期限までに契約を終えたり、補助金の支払いを決めたりさせる。

 例年よりも1割ほど速いスピードで予算が使われるという。国家公務員に人件費、生活保護費、自治体に配る地方交付税などは目標の対象外にする。

 安倍政権は今年4月に消費税を8%に引き上げることを決めたが、15年10月に予定している10%への再増税は、今年4月〜9月の景気の状況を見極めて判断することにしている。2月に成立した今年度補正予算も、総額5兆5千億円の経済対策費のうちの3兆4千億円分について、6月末までに7割以上、9月末までに9割の契約などを終える目標を定めている。
 増税後の景気を支えるため、政府は今年度補正と14年度当初予算合わせて約7兆円の公共事業予算をつけたが、建設業界の人手不足を背景に、事業の担い手が決まらない「入札不調」が全国で相次いでいる。公共事業が滞ると、増税後の景気回復も難しくなるため、当初予算では異例の数値目標をつくることにした。

という記事になっている。
 国の税金を景気対策のため、公共事業にじゃぶじゃぶ使って進めようとしているが、皮肉にもその受け皿が今まで建設業界の投資を絞ってきたため、受託できないほど建設業界が細っているようだ。多額の請負ができなくなっている。

 国の借金が100兆円になろうとしているさなかに、さらにじゃぶじゃぶと金をつけて、それも早く使え!という要求までして景気対策しなければならないのは何か間違っているように思う。
 
 そういう金があるのなら、もっと他に有効な使い道があるはず。
たとえば、女子パワーをもっと引き出して、社会貢献に役立てようという目標がある。現状では労働賃金が下がってしまったことと、生活に必要な金がかかること、また女子の労働意欲・社会貢献意欲などが高まり、前向きな女子が増えたことなどで、女子の労働意欲は高まっている。

 一方、女子は子育てをしなければならない環境にある人が沢山居る。そういう人に対し、保育施設や安心して預けられる幼児預かり、児童預かり施設の建設、保育要員の確保などに思い切った投資をし、一気に待機幼児・児童を解消するようにすれば、保育園や施設の建設などに予算の執行が有効にできる。

 しかも、その見返りに女子の労働パワーが飛躍的に高まり、生産性が上がり、税収入が増える。
 今のようなチマチマした予算でなく、一気に今の10倍というような予算の執行が必要だと思う。

 道路建設は、北海道で一日に数台しか通らないような高速道路を建設するという全く無駄な公共投資は今後、絶対してはならない。
 自民党の議員は頭がいい人が多いのだから、役所の権益に左右されずに、もっと今何に投資すべきかを考えてほしいものだ。




3月18日(火)
STAP細胞で騒いでいますね!

 このところ連日、新聞やテレビのニュースで、STAP細胞のことを報じられています。
あれだけ、大きく取り上げられたトップニュースだったから、その研究成果の根拠が崩れると、期待や落胆が大きいのは当たり前です。
 しかしそれ以上に、研究者としての倫理観のような一番大切な拠り所が崩れたことに対する何とも言えない虚脱な、空虚な感じは小生だけでしょか? 
まさかのさかが起きたのでしょうか? まだ、はっきりした状態ではないようですが・・・。

 追認実験をして再現できれば再び輝かしい成果につながると思いますが、本当に一度は成功したものでなければ、再現はできません。

 トランジスタを発明したショックレー博士ら3名は、半導体理論が次第に解明されてきた頃、実験を繰り返してトランジスタ作用(電流の増幅現象)を発明しました。しかし、当時は不良品ばかりで、なかなか安定に良品を造ることができなかったということです。それでも、理論が正しければ、実験を繰り返すことで、次第に安定してトランジスタを造ることができるようになりました。理論が技術に移る瞬間かもしれません。
 しかし、科学の理論が正しいという大前提がなければ、いくら実験を繰り返しても、成果は得られないと思います。
 もし、小保方さんが実際にSTAP細胞の製作に一度は成功していたのなら、再現実験において再現することができるはずで、正しいことが証明されます。
 まだそういう期待をもって、このニュースを日々注目しています。
 そうであってほしいという気持ちで一杯です。




3月16日(日)
なぜ、日本企業は負けたのか? 
その要因を知れば再起できるかも

坂本幸雄氏のコラムを読んで
 
製品に対する強い思いとは、
 「日本企業は技術があるのになぜ勝てないのか」とよく言われるが、この問いはピントがずれている。ひとつの商品を世に送り出すときには、技術うんぬんの前に、商品のコンセプトが存在します。それは、「こんな便利な機能を実現したいから新製品を開発しよう」という思いだったり、「これがあれば生活が楽しくなる」という夢だったりします。
 技術はその思いを実現するための手段として大切なのであって、ユーザが関心を寄せない、喜んでもらえない技術がいくら先行しても、その商品は社会に広く受け入れられ、売れるわけではありません。それよりも、『ユーザが考えもしなかった、けれども、おぼろげながらあったらいいなぁ!』と思うものを構想し、商品化していく姿勢が大切なのです。
 それを実現する過程で、もし自社に不足する技術があったら他社と提携したり、優秀なエンジニアを集めたりするなどして、それを補う方策はいくらでもあります。

「この商品で世の中を変えたい」という最初の『熱い思い』がなければ何も始まりません。
今日の日本企業に欠けているのは、この『熱い思い』。言い換えれば「製品に対する愛情」の強さです。

 生き生きと輝いている会社には、必ず「製品への熱い思い・愛情」が組織に溢れています。それは、経営トップにも同じことが言えます。経営トップが、商品に対してどれだけ深い『熱い思い・愛情』を持っているかです。 
『愛情』とは『深い関心』と言えるかもしれません。

 たとえば、アップルのスティーブ・ジョブズは、「みんな、iPodを自分のために作ったんだ。
自分のため、あるいは自分の友だちや家族のために努力するなら適当をかましたりしない」と自身の伝記(ウォルター・アイザックソン著、講談社)で述べています。
 

 自分が欲しいものを造りたいのだから、それができるまで妥協はしないという態度を貫く。
iPodはSONYやPanasonicが先行して販売していたポータブル音楽プレーヤを、後発でありながら見事に逆転して大成功し、世界中でオバケ商品に成長した。


 アップルがポータブル音楽プレーヤの「iPod」を商品化した後に、ライバルのマイクロソフトが対抗商品「ズーン」を発売しましたが、ズーンの販売は低迷したまま、ついにiPodの牙城を脅かすには至りませんでした。アップルがマイクロソフトに勝ったのは技術の優劣ではありません。「技術については同じようなものですが、いい商品をつくろうという思いに大きな差があったということです。それが決定的だった」とジョブズさんは言っています。

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同様のことで、自分の体験を思い起こすと、ずいぶん昔話になりますが、SONYがウォークマンを発売しました。当時としては超小型・薄型で、電池で動作する画期的な商品でした。
まさに飛ぶように売れました。カセットテープの大きさにまとめられたその商品は実に今までのカセットテープデッキの概念を打ち破っていました。
 この商品には大胆な割り切りが行われていました。それはカセットテープに録音する機能を省いて、再生機能だけという物でした。
 『持ち歩けて、音楽を聞ければいい』というコンセプトに特化した商品でした。録音機能を省いたため、メカニズムは薄く簡略化でき、テープ走行性能をある程度下げることができ、メカニズムの設計が楽になります。しかし、カセットテープの大きさにメカニズムを納めることは全く従来なかった発想の転換したものでした。
 
 当時、カセットデッキ市場はSONYとPanasonicが2分していましたが、ウォークマンが出たことで、あっという間にSONYが大きなシェアを取りました。これに対応してPanasonic、録音機事業部の事業部長は躍起になり、『早くウォークマン対抗商品を出せ!』という発破を開発陣にかけました。そこで出てきた商品が、通称『子デッキ』と社内で読んだものでした。カセットメカニズムはすぐ設計して製造できるような簡単なものではありません。

 ウォークマンは多分、全く新しい発想でカセットメカの設計をし、十分品質を検討して製造したものだったと思います。大変良くできた商品でした。敵ながらあっぱれ!と思いました。
一方、Panasonicの『子デッキ』は、カセットデッキに使う普通のメカニズムをそのまま小さな箱に入れただけの商品で、今、思うと全くウォークマンとは商品コンセプトが違うもので、ウォークマンの対抗商品とは縁遠いものでした。子デッキは持ち歩くことができない品物でした。
 
 当時、自分はステレオ事業部で商品企画をしていた関係で、この時ほど商品づくりで、『コンセプトが大事だな!』ということを思い知らされたことはありませんでした。
 その後、社内で本格的なウォークマン対抗商品ができ、やっとSONYに追いつくことができましたが、このジャンルは『ウォークマン』というネーミングが定着してしまいました。

 松下電器は以前、『マネ下電器』と言われた時代がありました。しかし、それでも商品は常に上位のシェアをとり、売り上げはNO1というものがたくさんあり、利益も十分出ていました。マネ下電器時代の方がむしろ良かったのです。
 ユーザ(消費者)が受け入れてくれるもの、喜んでいただけるものを造ることがメーカの使命ですので、売れているものを真似て作って、大量販売することができる時代でした。言い換えると、『モノ不足の時代』だったのです。
 現在は逆に『モノ余りの時代』です。ユーザが欲しいものを提供しないと見向きもされません。ユーザが欲しいものを商品コンセプトとしてまとめあげ、それを徹底して磨き上げる作業をしないと、ヒット商品にはなりません。
 最近、アップルがiPod、iPad、,iPhoneと立て続けにオバケ商品を連発していますが、これは天才だったスティーブ・ジョブズが居たからです。彼は残念なことにこの世を去りました。
 
 もう一つ、Technicsというブランドが松下電器にありました。今は、極一部の商品にしか使われていないと思いますが、10数年前までは世界中にHi-Fiオーディオ商品のブランドとして冠されて一世を風靡した時代もありました。
 そのTechnicsを代表する商品は、数々の名機と言われるものがありますが、特にターンテーブルで、アナログレコードを演奏する際に使うプレーヤです。これは従来、ターンテーブルと言えばモータに交流インダクションモーター(誘導電動機)を使い、ベルトで回転数を落として33回転のLPレコードに合わせていました。このモータは回転数の変動が大きく、ベルトはゴムでできていましたので、使っている内に伸びます。このモータをターンテーブルの軸に直結して、電子回路で制御したダイレクト・ドライブモータを開発し、それを世界初で搭載したプレーヤを発売しました。これが非常にセンセーショナルな出来事で大いにブランド価値を高めました。その後、次々とこの技術を使い新製品を出し、コストダウンして、Technics SL-1200シリーズは何と20年にわたる商品として、ロングラン賞を頂きました。

少し、話が逸れましたが、ユーザに喜ばれる商品はいつの時代でも、いつまで経っても飽きられることがなく使われます。逆にそうでない商品は一時売れても、線香花火に終わります。

 最近のデジタル商品も基本姿勢は同じことですが、その移り変わりの激しさは以前に比べると、超速の感じがします。それに経営者や造り手がどう対応できるか?です。
 もう一度、話を元に戻します。

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かつての日本企業では、製品への愛情があふれていました。
 ホンダの元エンジニアである小林三郎さんも、『ホンダ イノベーションの神髄』(日経BP社)の中で、次のようなエピソードを披露しています。若いころ、技術者研修があって、同年代の仲間7〜8人とグループで話し合いをすることになり、そのとき、上司から与えられたテーマがなんと「愛とは何か」というものだったそうです。なんで自動車づくりに携わる人が、愛について話し合わないといけないのか、最初は皆、わけがわからないという顔つきだったそうです。議論に火がついたのは、誰かが「愛車」という言葉を思いついたときだそうです。

愛妻、愛犬、愛唱歌......。それだけでなくカメラやギターも愛機と言う言い方をします。
でも冷蔵庫は愛庫とは言わない。同じ商品でも『愛』をつけてぴったりくるモノとこないモノがあるということが分かったと。この場合の『愛』とは、使う人の深い思いです。
たとえば、冷蔵庫は冷やすという機能を提供すれば、製品として立派に役目を果たしたことに
なりますが、自動車は動けば十分というわけではありません。
エンジンのサウンドだったり、加速の心地よさだったり、インテリアの質感だったり、乗る人の
心や五感を揺さぶるような情緒的な価値を実現して、初めて「いいクルマ」だといえます。
そうしたことを、若いエンジニアたちはこの研修で学んだと、小林さんは書いています。急成長したホンダというメーカは車造りで「愛」の大切さを自覚したのです。それが『ホンダドリーム』だと思います。

 実は、以前の日本のエレクトロニクス企業には「製品への愛情」が溢れていました。実例を挙げると、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の久夛良木健さんです。「プレイステーション」という画期的なゲーム機をつくり、多くのソフトや画像の美しさ、精巧さで「ゲームは子どものおもちゃ」というこれまでの概念を変えてしまいました。

ジョブズさんとも共通することですが、製品への愛が桁外れに強い人はそれゆえにさまざまなエピソードを残すものです。あるとき、製品の不具合騒動が起こりましたが、クレームをつける人たちに対して久夛良木さんは、「仕様に合わせてもらうしかない。有名な建築家がつくった建物にドアの位置がおかしいと文句をつける人はいない。それと同じことだ」と言い放ったといいます。一歩間違えれば、顧客軽視の暴言と受け止められかねない言葉ですが、作り手の製品に対する深い思い入れが凝縮されているセリフです。ここまで自社製品に自信を持てる経営者が、いまどのくらいいるでしょうか?

ソニーでは、創業者の盛田昭夫さんや大賀典雄さんも、商品にこだわり抜いた人たちでした。盛田さんの時代に「ウォークマン」というオバケ商品が登場したのは、「iPod」をつくったアップルと同じく、当時のソニーという企業にも音楽を愛する人がたくさんいたからでしょう。
もともと芸術家の大賀さんも、商品の細部に徹底してこだわったといいます。新製品の検討会議で、次期ビデオカメラのモックアップ(模型)が提案されたとき、大賀さんはそのデザインが気に入らず、怒りのあまりそのモックアップを放り投げたといいます。
そんな少し子どもじみているこだわりが、ソニーの製品を洗練させ、磨きをかけ、ついにはSONYブランドの確立にもつながったのだと思います。

しかし、残念ながら、こうした強いこだわり、製品への愛情は、日本企業のなかから徐々に薄れてきたように思います。組織が官僚化して、短期的な売上高や利益といった数字を皆が追いかけはじめました。そういう企業風土がいったん確立すると、昔の生き生きした本来のものづくりができる組織に戻るのは容易ではありません。

もし、SCEがソニーから独立し、ある種の天才である久夛良木さんの思いどおりの経営ができていたら、そこから「第2のソニー」が誕生したかもしれません。しかし、ソニーの経営陣にとって、「金の卵」であったSCEを手放すことは思いもよらなかったことでしょう。久夛良木さんにとっても、日本にとっても、残念なことだったと思います。

スピード経営――もうひとつの勝ちパターン
 これまで「愛情経営」について書いてきましたが、もうひとつ勝利のパターンがあります。
それは「スピード経営」です。今のエレクトロニクス・IT市場における勝ちパターンはこの2つだけだと思います。
日本におけるスピード経営の代表選手は、ソフトバンクの孫正義社長でしょう。
孫さんは2012年の秋に1兆円を超える巨額を投じて、アメリカで第3位の携帯電話会社のスプリント・ネクステルの買収を決断しました。彼は、チャンスと見れば、瞬時に決断して揺らぐことがありません。

日本でボーダフォン・ジャパンを買収して携帯事業に参入するときも、多くの人が
「借金が大きすぎて、ソフトバンクはいずれ破綻する」と言いましたが、料金の定額制をいち早く
打ち出すなどして見事に成功しました。トップが非常に大きなリスクをとって、すばやく決断することで、ビジネスにつなげていく。日本の大企業の経営者にはとてもマネできないスピード決断で、社員の士気を大いに高めるのが、孫さん流の経営手法です。

日本企業を追い越した韓国メーカーの成功の秘密もスピード経営にあると思います。アップルが愛情経営の代表とすれば、その宿敵のサムスン電子がスピード経営の成功例だといえるでしょう。
韓国企業の特徴は、トップが部下を信頼し、部下が出してきたプロジェクトをいいと判断したら信じられない速さでそれを遂行していく。このことが部下にとって大きなモチベーションになり、自らのプロジェクトの成功に向けて邁進していく。
一方、日本企業の経営のスピードは信じられないほど遅い。日本企業のミドル層はその道のプロであり、大きな間違いはしない。ところが、経営のトップ層が結論を出し渋り、せっかくいいプランを考えても、そこで停滞してしまう。本人たちのやる気がなくなった頃になって、ようやくゴーサインが出るように思われる。とにかく、意思決定が遅い。

サムスンのジレンマ
日本のサラリーマン経営者には、とうていマネのできないスピード感で疾走して、強くなってきたのが、アジア通貨危機で一皮むけたサムスンだと思います。しかし、そのサムスンにも死角がないわけではありせん。かつて日本の総合電機メーカーも経験したことですが、商品のラインアップが拡がりすぎた結果、部門間の利益相反が深刻になってきました。一番分かりやすいのは、最終製品と部品の利益相反です。
たとえば、スマホ市場で、サムスンはアップルとしのぎを削り、特許訴訟も進行中ですが、サムスンの半導体部門にとってアップルは大切なお得意様です。しかし、右手で握手して、左手で殴り合うような関係はアップルがサムスンを脅威とみなす度合いが大きくなるにつれて、維持しがたいものになっていきます。

アップルは、ことモバイルDRAMの調達については明らかにサムスンへの依存を減らし、エルピーダとの関係を重視する方針に舵を切っています。こうしたことは、DRAMだけでなくコンダクターやディスプレイのような他の電子部品でも起こるでしょう。アップル以外の機器メーカーも、ライバルでもあるサムスンへの依存は気持ちのいいものではありません。

実は、サムスン自身も、このジレンマに気づいています。いまから数年前には、半導体事業をスピンオフして、最終製品部門と半導体部門を資本関係のない独立した企業体にしようという動きもあったようです。しかし、そこまでの決断はできずに、今に至っています。また、サムスンの業績評価は非常に厳しく、年ごとに業績によってボーナスの支給が大幅に変わります。役員の平均勤続年数は4.4年だと聞いています。
このことからも、長期的に物事を考える力が切り取られているおそれがあると思われます。
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 これまで勝者、サムスンのスピード経営が今後どうなっていくか、注目したい。
『盛者必衰は盤石とも思えるサムスンにも起きるか?』である。
 そして、サムスンの時代齟齬(弱点)を見つけ出すことで、日本メーカにも再起のチャンスを見出してほしい。




3月14日(金)
サムスンはなぜ成功したのか?
吉川 良三 氏のコラムより


 サムスンの躍進を支えた3つのイノベーションとは、
「トヨタのカンバン方式」に象徴される日本のものづくりに対し、いまだに日本の工場の生産性は高い、日本は非常に効率的にものづくりをしていると思い込んでいる人が多い。日本企業の生産性は低い!

生産性とは、
インプット(労働力や資本)に対して、どれだけアウトプット(利益や付加価値)を生み出せたかである。すなわち、入力分の出力で、出力/入力をいう。
「生産性が高い」というのは、かけたコスト(労働力や資本)に対して、より多くの利益や付加価値が生み出されている状態をいう。
 多くの日本企業が、乾いた雑巾を絞るようなコスト削減努力を重ね、人員削減にまで手をつけている。にもかわらず、利益率など収益性が国際的に見て低いままなのは、努力の方向が間違っているからと言える。
 分子を拡大する、すなわち「いかに多くのアウトプットを生み出すか」ということを抜きに、生産現場における効率アップを図ったり、コストをぎりぎりまで削ったりしても、その効果には限界がある。ライバル企業も同じようなやり方をしていた時代なら、それで勝てるかもしれないがデジタル化の時代になり、いまや『生産性向上の概念』そのものが変化して来ている。より大きな効果を得るために、従来の延長線上にはない、大胆なアプローチが必要になっている。

起死回生をかけたサムスンの3PI運動
これまで、危機に直面したサムスンが日本の後追いを止め、グローバル競争を勝ち抜くため、従来のやり方をすべて変えるほどの大胆な改革を断行した。
それが、人材育成(パーソナル・イノベーション)、製品開発(プロダクト・イノベーション)、開発・生産プロセス(プロセス・イノベーション)の3つのイノベーション「3PI」)といわれるもの。
 サムスングループを率いる李健熙(イ・ゴンヒ)会長は、グローバル化とデジタル化という世界の変化を敏感に感じ取り、『日本の物まねを続けていたのでは生き残れない』という強い危機感から、1993年、「妻と子供以外は全て取り換える」という言葉に象徴される「フランクフルト宣言(新経営)」を発表し、大改革に着手した。
「3PI運動」はこれを受けて始まったものだが、その後、軌道修正を経て、97年末に韓国を襲ったIMF危機以降、本格的に効果を表すことになる。
IMF危機で存亡の瀬戸際に立たされたサムスンは、従来の日本のものづくりのやり方からはっきり決別し、まさしくゼロの状態からすべてを見直して、日本企業がまだ市場として見ていなかった新興国市場に活路を見出すこととなった。
その際、新興国の消費者の多種多様なニーズに対応しつつ、低価格でも確実に利益を上げることを可能にした原動力が3PIである。

デジタルデータを活用した「刺身方式」で開発期間を短縮
プロセス・イノベーションは、製品開発や生産などにおけるすべてのプロセスをより効率的にしていくことを目的に進められた。プロセス・イノベーションはまず、事業所ごとにばらばらだった部品コードの統一と標準化を行い、それと並行して設計や開発に関わる全情報の一元管理システム(PDM;Product Data Management)を構築。
その上で、CAD/CAMと呼ばれるコンピューター支援による設計・製造システムを整備した。CADはコンピューター支援により設計作業を行うこと、CAMはコンピューター支援で製造することで、CAD/CAMはこの2つを統合したシステムの総称である。
情報がデジタル化し、社内に情報を集約するハブをつくることが可能になったことで、同じ目標に向かって動いている人たちが、別々に行っている作業を同時並行的に進められるようになった。一つの製品を複数の部分に分割し、複数の設計者が並行して作業を進めていくチーム設計や、商品企画、デザイン、設計、製造、品質管理、営業、アフターサービスなど、異なる部門の人たちが同時に開発を進めるコンカレントエンジニアリングといった手法はPDMがあることで初めて可能になるものだ。
こうしたものづくりは「串焼き方式」と「刺身方式」の違いに例えることもできる。
串に刺さった焼き鳥は通常、鳥、ネギ、2番目の鳥・・・というふうに、先のほうから順番に食べていく。同様にかつての商品開発は、商品企画→デザイン→機能設計→構造設計→生産へと作業が順送りで進められていた。
プロセス・イノベーションを果たしたことで、それが刺身方式へと変わった。何種類もの魚介類が皿に盛りつけられている刺身では、マグロが先かイカが先かと食べる順序が決められているわけではなく、複数の人が同時に、それぞれ好きなところから食べられる。商品企画が続いているうちにデザインを始め、デザインの最中に機能設計、構造設計も始めるという開発方法がデジタルデータをやりとりすることで可能になり、短期間により多くの種類の製品を生み出すことができるようになった。
いつでも必要な時に必要なデータを取り出し、共有できるからこそそれができた。
日本企業はいったん開発がスタートしたら、何があっても最後まで突っ走るが、サムスンでは、需要の下振れやコストの増加といった変化があれば、途中で撤退することもできる。
串焼き方式はアナログ時代のものづくりであり、刺身方式はデジタル時代のものづくりだ。両者ではそのスピードや柔軟性に大きな差が生まれるのは言うまでもない。

「見える化」から「見せる化」へ
サムスンはPDMを進化させていく過程で、社内の各部署はもちろん、海外の事務所や社外の部品メーカーにいたるまで、製品に携わるすべての人が必要なときに必要な情報をすべて見られるようにした。たとえば、信頼できる外部の部品メーカーであれば、正式な受注がある前に情報を見ることができるようにしたことで、設計図の完成を待たずに準備を進められるようになり、開発期間の大幅な短縮につながった。
さらにサムスンは「見える化」にとどまらず、必要に応じて「見せる化」することも心がけた。求められる情報をグラフにしたり、複数のデータの関連性を視覚化したりして、情報を相手にとってより有益なものになるよう加工することで、決定までの時間を短縮するとともに、人による判断のばらつきを減らし、決定の精度を上げることができるからだ。
日本は『デジタルものづくり=設計情報などをデジタル化すること』という認識でいる企業が多い。デジタルものづくりの本質とは、本来このように組織のあり方や働き方の変革を伴うものなのだ。

地域に精通した人材を育成し、新興国の需要を発掘
3PIの根幹であるパーソナル・イノベーションでは社員の意識改革と、グローバル時代に対応できる人材の育成を図った。なかでも大きな役割を果たしたのが、「地域専門家制度」だ。この制度では対象者を「人力開発院」という人材育成機関に3カ月間カンヅメにし、その国の言葉はもちろん、文化や習慣なども叩き込む。日本企業はいまだ英語偏重だが、ここで学ぶのは主に新興国の言葉で、インドであれば、現地語のヒンズー語やタミル語だ。日本語のクラスでは、生け花や茶道、カラオケ専門の教師もいて、教室には、歌舞伎や能の舞台の模型まであった。

人力開発院で集中教育を受けた後は実地研修として派遣先の国に半年から1年間、滞在させる。興味深いのは、彼らはその滞在期間中は何ひとつ任務を帯びないことだ。現地事務所や駐在員を一切頼らないというルールさえ守っていれば、極端な話、毎日パチンコ店に通ってもいい。
そうして現地の社会に溶け込み、独自の人脈やルートを構築した「地域専門家」は、正式に派遣された後、情報やトレンドをいち早くキャッチして、地域のニーズに合致した製品を次々に企画していった。

競争を優位に運べるシステム構築
「パーソナル・イノベーション」や「プロセス・イノベーション」に加えて、3つ目の「プロダクト・イノベーション」がある。この改革でサムスンは、リバース・エンジニアリングの手法を駆使し、中国向けにはジャガイモが洗える洗濯機、インド向けにはかさばるサリーが洗える洗濯機、といった具合に、地域ごとの要求機能(ニーズ)や制約条件に応じた製品の開発力を高めていった。
必要のない機能も全部詰め込み、世界中に同じ製品をばらまこうとした日本企業とは対照的な道を進んだのだ。
このようにしてサムスンは、デジタル化を最大限に利用し、各国消費者の多種多様なニーズに応じた製品を安価かつ迅速に提供できる仕組みをつくりあげ、それらを武器に、新興国の市場を席捲した。
従来のやり方そのものを見直して競争を優位に運ぶシステムを構築したことで、グローバル競争の勝者になることができたのだ。
こうしたサムスンのイノベーションについて、「何も新しい技術を生み出していないではないか」と反論する人もいる。日本では「イノベーション」=「技術革新」ととらえられているためだ。

日本をダメにした3つの誤訳
@イノベーション
 既存の技術を組み合わせて、消費者に新しい価値を提供することも、本来は立派なイノベーションだ。
 逆にいうと、いくら新しい技術を開発しても市場に受け入れられなければ、イノベーションとはいえない。
A「マーケティング」
 「市場調査」と訳されることが多いが、サムスンでは「市場発掘」「市場創造」という意味にとらえていて、そのために大勢の「地域専門家」を育成している。
B「コンプライアンス」
 「法令順守」ではなく、「時代の変化に適応するために、従来のやり方を変える」ことと解釈すべきだ。
 3PI運動は「社会のパラダイム変化に追従したサムスン流のコンプライアンス」とみることができる。
 
日本企業は一度、こうした発想を根本から見直してみてはどうだろうか





2月18日(火)
日本人はアナログ人間か?

日本人と外国人

『日本人はアナログ人間、外国人はデジタル人間だ!』というと、とっぴな表現に聞こえるかもしれません。

これは極端に言えばの話で、逆に日本人にもデジタル人間が、外国人にもアナログ人間がいます。しかし、総体的に見れば、日本人はアナログ人間だ! ということです。
『何を言いたいのか? さっぱり分からん!』とおしかりを受けるかもしれません。要はこういうことです。

日本人は有史以来、アジアの東の端の島に住んできました。だから外敵に襲れることもなく、数千年もの間、穏やかに生活を重ねてきました。
文字を使って記録(ドキュメント)として、古事記や日本書紀が残されてから1500年ほどになります。この文字は中国から入ってきた漢字ですが、漢字をアレンジしてカタカナや、ひらがなを発明し、独自の文化を築き、中国に国が占領されたということはありません。漢字は中国から進んだ文化として入ってきました。

日本が襲撃され日本人が被害を蒙ったのは元寇の役ぐらいで、その後、先の太平洋戦争ででした。

日本人は人を疑わず、助け合い『和をもて尊し』という心根をもっています。
だから、もめごとや決め事においても、白黒を着け、明快な答えを出すことをためらったり、差し控える人が多い。これは日本人が外国人と大きく違う気質だと思う。

ヨーロッパ人は各国が陸続きなので、古代ギリシャ、ローマ帝国時代から近代にいたるまで、各地の諸侯が王位(覇権)を奪い合い、殺戮が繰り返された歴史が続いてきた。ヨーロッパはどの国でも、王朝が次々と入れ替わり、戦争で勝ったものが新しく王位につき、破れたものは容赦なく殺害や追放された。領土も覇権者(王朝)の力で広くなったり、狭まったりを繰り返してきた。お隣の中国でも、朝鮮でも同じことが続いた。

世界中で唯一日本だけが、『天皇』という王朝を戴いて1000年以上も続いてきた。このことは、世界の歴史上で非常に珍しいことである。

政治(統治)権力は、平安時代の藤原、鎌倉時代の源、安土桃山の足利、織田、豊臣、そして江戸時代の徳川と続き、明治の大政奉還につながる。政権は貴族、武士と代わっても、王位(天皇)は延々と続いてきた。これを称して『万世一系の天皇・・・』と呼んでいる。

日本以外の諸国は、王、または王位が入れ替われば、前の王は殺害や追放されて歴史から途絶える。
いわば、貴族政治、武家政治の裏で、脈々と天皇家が千数百年にわたり生き続けてきた。そのことが世界史の中で、日本だけの独自の文化である。

日本では、何か議論する場合でも、正面切って賛成、反対しないことが多い。また、日本語は『あいまい、模糊』とした表現が多い。その一例が『検討します』という言葉で、『積極的に賛成でないが、特に反対でもない、まあ、その内に何かあればやりましょう』というような時に使われる。
本来の意味は、『検討します』ということは、『きちっと調べて答えを出します』という前向きの意味のはず。
政治家や役人が『検討します』という時は『それは実行しません』という否定語に使われるようだ。

日本人は『白黒をはっきり着けるのはよくない』という深層心理を持っている。やるのか、やらないのかを玉虫色にして棚上げして、そのうちに自然と結論が出るまで置いておこうというスタンスである。
しばらく待てば、自然と結論や結果が出る、その時にこうだと決めればいいというような感覚をもっている人が非常に多い。言わば、優柔不断である。
これはアナログ的な感覚で、物事の変化をつながりで考えている。

外国人は白黒をはっきり決着し、はっきり言うのが普通である。これはデジタル的な考え方で、物事を白か黒で仕分けして考える。『やっていいこと、やってはいけないこと』
『やること、やらないこと』『他人に迷惑をかけたこと、そうでないこと』をはっきり態度や言葉で表す。だから外国人は自分が悪くないと思えば、絶対に謝らない。謝ることは自分の非を認めることになる。非を認めると、自分が不利益の立場になることを長い歴史を通して身に着けてきたのだろう。

“Excuce me”という言葉はよく使われる。日本語では『ちょっと失礼します』という意味だと思うが、相手に対して対等な立場で伝える言い方だ。
 
これに対して、“I’m sorry”というのは、相手に何かまずいことをしたとき『失礼しました、ごめんなさい』ということで、自分の非や過ちを認め、『すみません』と少し謝るような時にしか言わない言葉で使い分けている。

日本人は何かにつけて『・・・すみません』とよく言う。
たとえば、エレベータに乗るとき、“Excuce me”というが、“I'm sorry”とは決して言わない。日本人なら『すみません』という。自分に非がなく、何も謝ることがない場合でも『すみません』という。

こういう言い方は、白黒を使い分ける外国人からすると、『日本人は変わった人種だ』と思うらしい。

物事を白黒で決着つけることを避け、できるだけ穏やかに、『和をもって尊し』としてきた文化が日本である。要は白黒の間に灰色という中間色をうまく使いながら、互いの敵対する緊張感を和らげ、穏やかな生活を送ってきたと言える。

それができたのは、日本が長年にわたり敵対する相手、攻めてくる相手が居なかったからである。国内の小さな紛争はあったが、言語や人種をことにする民族間の戦争はなかった。宗教上でも、敵対するような激しい対立はあまりなかった。

そういう意味で、アナログ人間は日本人にしかいないし、開発途上国や後進国の住民には日本人以上にアナログ人間がいるかもしれない。

しかし、時代が変わりグローバル、ボーダレス時代になり、世界が一つになりつつある現在、世界のあらゆるスタンダードがドンドン日本に入ってくる。

諸外国と日本国の間に地理的には海が存在し、隔たりは存在するが、航空機や船舶の輸送手段が発達し、インターネット、ITの導入で物理的な隔たりをなくしてしまった。日本は依然として島国であるが、孤立した国ではなくなった。

日本人のアイデンティティーだったアナログ人間的要素は次第に色合いを薄くしている。デジアナ(デジタル-アナログ)人間が増えてきつつある。
ビジネスは国際化し、外国人が主張する白黒論争に対して、『いやァ!もう少し考えよう、もうちょっといい案がないか?』など悠長に課題を考え、結論を先送りし、『その内に結果が出てから、それを見て結論を出そう』という今までの日本的な考え方や行動ではどんどん置いてきぼりを食う。

韓国サムスンやLG電子が日本のお家芸だった家電・電子産業を駆逐したことはトップの決断の速さと素早い行動による。

今後、日本人だけが持っているアナログ人間的考え方や『日本人気質』が国際競争でどういう優位性を発揮できるか楽しみだ。
『日本の常識は世界の非常識」 と言われてきたが、『日本の常識は世界の常識』になる日が来るか。

 それはデジタルが行き詰まった時、すなわち世界の常識が立ち行かなくなった時に、アナログの良さ、すなわち日本の常識が再発見されるかもしれないからである。
 



2月15日(土)
安倍首相の国会中継を見て、
「世界最高水準の安全基準で審査をするので・・・」

 今、開かれている通常国会の予算委員会のテレビ中継を見ていると、野党の原発再稼働の質問に対して、政府、安倍総理、茂木経産大臣や自民党幹事長よく使う言葉であるが、何か違和感を感じませんか?

 世界最高水準の安全基準で、今停止している全国の原発を順次審査して、合格したものから稼働させるという流れになってきた。
 特に中部電力の浜岡原発は東南海地震の震源地の中心部に存在するので、菅総理が稼働中止を申し入れ、中部電力が発電停止し、津波対策などの安全対策を施して、再稼働の申請をしたという報道がなされた。
 静岡県御前崎市にあり、大地震が起き、富士山が噴火して、大量の粉じんや溶岩流で地形が変わったとしてもこの原発は大丈夫なのか?
 もし、事故が起きれば、放射性物質は東に飛散し、東京や関東地区には人が住めなくなるだろう。

 原発は安全でなければならないことは誰でも理解している。その安全を担保するためにどうするかである。もし、これが納得できなければ、住民や国民の理解が得られず、いつまでも再稼働はできない。

 原発一基は数千億円というとてつもない金がかかっている。その金は稼働しなければ、資金のムダ(死に金)になる。電力会社は一刻も早く再稼働させたい。しかし、原子力安全委員会という国の審査に合格しなければならない。
 
 今までも、すべての原発は原子力安全審査を受けて合格していた。
しかし、福島第一原発は、東日本大震災の津波にあえなく破壊されてしまった。そこで、日本は世界一厳しい安全審査基準を策定し、それに従って審査することとした。

 ここで大切なことは、言葉のあやにごまかされてはならない。
 新安全基準は厳しくなり、世界最高の安全基準であることは特に否定しない。世界最高の安全基準とは、他の国の安全基準との比較であって、その基準で審査し合格すれば、日本という地震国、火山国でも安全かどうかである。
言い換えると、日本は世界一の地震国の一つであり、全土が火山列島である。
こういう国が世界中のどこにあるのか?

 要は、地震国、火山国の日本は、そういう恐れがない国の安全基準と比較して、世界最高の安全基準と言っても、それは安全を保障するものではない。
要は比較論であり、比較的、他国の安全基準に対して厳しい対処をしているとはいえる。だから地震や火山の噴火や津波に対して安全だとは誰も言い切れない。
 
 それを堂々と国会の議論の中で、政府与党は言い切っている。その回答に対して、野党はそれ以上の追求ができていない。

 原発は比較論や確率論で進めてはならない。

 それは事故が起きると、東電が言っていた『想定外の・・・』ということにつながる。想定は絶対でなければならない。しかし、人知は未だ、絶対を保障する術がない。術がないなら、原発は稼働させてはならない。

 そういうと、科学技術はすべて想定内の水準で物事を進めている。すべての工業製品、インフラなど設計基準と言う想定値で設計する。
 
 飛行機だって、2重、3重の安全対策をしているが、自然の摂理である重力に逆らうことができない。飛行機が安全に飛行できるのは、重力と浮力がバランスしているという条件において、安全が成り立っている。
 
 原発も、炉心の中に原子核燃料が閉じ込められて、核反応するという条件においてである。この条件が崩れた時、原子力エネルギーはとてつもない被害をまき散らすことになる。

 飛行機は事故が起きると墜落する。墜落しても搭乗者と、墜落地点に人が住んでいれば被害にあうが、被害はその範囲にとどまる。
ここが原発と飛行機の違いである。
 
 安倍さんや茂木経産大臣がよく言う『世界最高の安全基準で審査する』だから大丈夫、安全だという論理は間違いではないが正しくはない
 
 火山列島、地震列島、津波列島の日本での国土の上で、54か所の原発が再稼働して、次の天災による事故が起きた際は日本は再起不能になるだろう。
 
 原発の高放射能廃棄物処理問題も棚上げ状態にある。核のゴミを引き受けてくれる国はない。自分で処置しなければならない。それすら安全に何千年、何万年保管する設備など保障できるはずはない。
 
 海外旅行して気づくことは、他国では一部の地震国を除いて、地震を知らない、経験したことがないという人が非常に多い。逆に日本人は地震に慣れっこになっている。それほど日本の地下には地震の巣が走っている
そういう特殊な国であることを自覚しなければならない。そうすれば、世界最高の安全水準等言う言葉がいかに『無意味』であるかが分かるはずだ!!



1月30日(木)
心がスーッと晴れ渡る「感覚の心理学」を読んで
名越康文著
角川新書
定価780円(税別)

  名越先生の『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』に引き続いて、同じシリーズの
『心がスーッと晴れ渡る「感覚の心理学」』を読んでみた。こちらは思っていた以上に難解で、読み解くのに苦労した。というよりわかり辛く感じた。

 やはり、心理学独特の言葉の使い方があり、それを自分の頭で一度、現実の生活や状況に生き返る作業がかなり必要になる。
名越先生は分かりやすく、話の展開の中でそういう作業をしながら、著を進めてくれているが、それでもまだ自分で、ここはどう理解したらいいのかな?というフレーズがたくさんあり、そこに突き当たると、なかなか前に進めない。だからあまり気にせずすっ飛ばしたところも沢山ある。でも何とか最後まで諦めずに読み終えた。

 内政も外交も行き詰まり、将来不安とともに生きづらさが増しています。どうしても心が暗くなりがちですが、さわやかで心地いい感覚は周囲の人が与えてくれるものという思い込みをしていませんか。自分の心をコントロールするのは自分自身です。
 そして、心地いい感覚は自前でつくり出すことができるのです。その手段として、心が洗われていくようなさわやかな気分、身体の中から沸き起こるような「内発感覚」を体験し、インプットしておくのです。
 そのためには、どうすればいいのか。例えば近くにあるお寺や神社など、自分の心が落ち着く場所に出かけ、少しの時間でいいので真剣に祈ってみてください。心が澄み渡り、軽くなるような感覚が身体を包み込むはずです。 
 また、自分の心をいつもモニタリングできるようになると、不快な感情に心が支配される前に、不快な感情が湧き起こりそうだと読み取ることができるようになります。すると、ネガティブな感情が芽生えそうなときに、事前に抑えることができるようになってくるのです。心が不安や苦しみ・悩みに支配されず、前向きな気分を長続きさせるにはどうすればいいのかを伝えていきます。

 
 第一章:将来の不安を拭うために、どうすればいいのか?
 第二章:生きづらさの根底にあるもの
 第三章:なぜいつも心は爽やかでいられないのか?
 第四章:心地いい感覚は自前でつくり出すことができる
 第五章:爽やかさをつくり出すベースこそ「感謝」
 第六章:心が晴れ渡った感覚をキープするには
 第七章:「内発感覚」が人生を楽にしてくれる
となっている。
 興味ある文章に孟子の言葉が紹介されている。
『等しく同じ人間でありながら、偉大な人になったり、つまらない人になったりするのはどういうわけか』と問われた時の答えは?
 『人間の体には大きな体と小さな体の区別がある。大きな体、すなわち人間が本来持っている良心に従って生きれば徳の高い人物になり、耳や目の欲望のままに従って生きれば、つまらない人間になる』と。

 正解があるということを担保にしないと不安でたまらない日本人
学生時代にずっとやってきた勉強は問いに対して一つの正解があり、それを求めることばかりやってきた。そして正解があるという安心感を担保として一生懸命考える習慣が学習のあり方として身に沁みついてしまっている。
だから、社会人になって一番困ることは、『答えがない』状況に置かれることだということです。優等生ほど一つの答えを人より正確に、早く答える訓練をしてきた人だから、『答えがない』または『たくさん答えがあって、何を選べばいいのか』という状況に置かれると戸惑ってします。そうすると自分の得意技、自分が知っているやり方に頼る。しかし、自分に課せられている状況は全く逆で、そもそも自分の得意技が通用しない現実に置かれているのです。・・・・。

 普段は元気なのに、会社に行くと憂鬱になるという『新型うつ』という人は自分の調子をコントロールできていない人でしょうか?
新しい生活習慣が身に付きにくいとか、忙しすぎて睡眠不足で倦怠感が抜けないとか、職場環境が悪すぎて実績が積めないとか、いろんな言い訳をする人がいますが、往々にして自分の心との対話・対応が身についていない人ほど、やたら忙しい、忙しいと言っているんです。一日を冷静に振り返るとずいぶん時間を浪費していることがありませんか?・・・・
本当に忙しい人ほど、忙しい、忙しいとあまり言いませんね。

 というような調子で書かれていますので、興味のある方は是非読んでみて下さい。

 現在の日本社会の閉塞感の中で、生き抜くための処方箋のような感じもします。




1月24日(金)
心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」を読んで
名越康文著
角川新書
定価780円(税別)


 いつも、歩きながら中波のNHKラジオ(第一放送)をよく聞くが、『関西土曜ほっとタイム』という佐藤アナの独特のおしゃべりに魅了される。 1月18日(土曜日)の放送を聞いていると、大変興味深い内容の話がありましたので、ご紹介する。

 心理学者の名越康文先生の対談の再放送だったのですが、久しぶりに大変わかりやすく心の問題についてお話されていました。

 そういえば、名越先生はNHKテレビのルソンの壺のコメンテータもされています。
心理学というと、とっつきにくい、難しいと思いますが難しく話をされる心理学者も沢山居られます。そういう先生が多いのです。
 しかし、しょせん、心理とは心がテーマですから、素直に読み解くとそう難しく考えることもないと思います。

 名越先生はNHKラジオの対談で、大変わかりやすく、身近な例を挙げながらお話をされていましたので、先生の書いた本を読んでみたくなり、家に帰ってすぐパソコンを立ち上げ、インターネットにつなぎ、amazonを開いて名越先生の本を2冊注文しました。

 その一冊が、今日のタイトルの本で、『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』です。
もう一冊は同じようなタイトルで、『心がスーッと晴れ渡る「感覚の心理学」』です。

 心理学はなぜ難しいのか? 少し考えてみたいと思います。
大昔、大学時代に教育資格を取ろうと思い、当時は中学1級、高校2級というランクで、科目は数学と理科(物理)と工業科の教員免許を取得しました。
そのために、「児童心理学」と「青年心理学」の講座を受講したことがあります。そこで初めて、心理学に接したのですが、その後、松下電器の枚方の社員研修所時代に、マネジメント研修として、何人かの心理学者や心理について話をしていただく講座を開催し、自分もその話を聞く機会がありました。
 そういうことで、心理学については興味のある分野となりましたが、これを生業にしている先生方は大変な苦労がいるな?という印象を持っていました。

 それは心というものが無形で常に揺れ動いているからつかみどころがないからです。

それでは一冊目の『心がフッと軽くなる瞬間の心理学』について!!
 先生の著書の「まえがき」をお借りするなら、『怒りなどの感情やそれに伴う思考は、心の固定した構造をいくら理解しても、実際に捉えることが難しい。また、個々の人間の生い立ちの中で生起したさまざまなエピソーディックな体験を分析し理解することも、自他に対する破壊的な感情を制御することの重要な礎にはなり得るが、ただそれを分かっただけでは、やはり効果的な対処法には至らないのである。』というように書かれています。そのとおりだと思います。

 この文章を理解できれば、この本を読み続け、読み終わることができると思いますがこの表現が理化できなければ、やはり心理学を学ぶのは難しいかもしれないと思う。
 
 さらに先生は、『感情や思考はいつも、今のこの瞬間に生起し続けているからに他ならない。このことの臨床的な意義は、いくら強調してもしすぎることがないほど重要なこと』と言われている。
 そして、やはり、『ある意味、予想通り、いわゆる読みやすい種類のハウツー本とはかなり趣を異にする作りとなった。瞬間から瞬間へ、実にすさまじいスピードで絶えず変化し続けている我々の心の状況をできるだけわかりやすく説明することは至難だった。』と結んでいる。
 
 先生にもうまく表現することが難しいことなのだということが分かります。
やはり、心は融通無碍に変化し続ける無形のものなので、掴みようがなく、掴んだ瞬間にすでに他のところへ変化しているからだと思う。それを学問的に裏付けたり、説明しようとすれば、どうしても文字や音声により表現しなければならない。
 しかし、100%、心を正しく表現できる術はない。だから心理学者はいろんなパターンや事例を挙げながら心の真相に迫ろうと苦労するのであろうと思う。
 聞く方や読む方としても、相当努力し集中しないと、先生の言わんとすることが理解できないということになる。

 でも、名越先生はそれを分かりやすく説明してくれるので、難解の心理学を何とか読み解くことができる。
 目次をご紹介する。
第一章 閉塞感が増す時代の「今を生きる力」
第二章 心が弱っていると思った時、うつに向かわないために
第三章 人にとって働くこと、生きがいとは
第四章 せちがらい社会を生き抜くために
となっています。

大変興味のある文章を一部ご紹介しますと、
『あくまで不安を生産するのは、自分自身の内面である。しかし、世間では、だれかがうつになったり、自殺、あるいは自殺未遂をすると、その原因をすぐ外的要因に還元しようとしがちです。』

『こだわりとは何か? それはひとつには自分が持っている価値観への執着です。その執着の強さを武器にして、頑固に我が道を突き進もうとするのがこだわりの態度です。それに対し、もっと本質的な意味で、こだわりを持っている人は、固定概念に囚われるというより、むしろ、興味あることを常に追求したり、探索したりしている人のことを言うのではないでしょうか。そういう真摯な態度と単なる頑固なこだわりとは、別のものである気がします。

 ご興味のある方は、ぜひ、一度本を読んでみて下さい。
結構骨のある内容です。



1月18日(土)
「アメリカは日本経済の復活を知っている」を読んで
浜田宏一(内閣参与)著
講談社
定価1600円(税別)

 今、経済分野でノーベル賞に一番近いと言われている浜田宏一氏の本を 前回の本「アベノミクスとTPPが創る日本」に引き続いて読んだ。前回の本の読後感は下に書いているが内容的にはQ&Aで書かれて簡潔だったのですぐに読み終えた。
 今回のこの本は、内容が多く、結構読みごたえがあり、小生にはなかなか難しいものだった。
 浜田先生は1936年生まれということですから、70歳後半になられる。
大変お元気で活躍されている。経済学の流れからして「リフレ」と言われる考え方の方です。
 経済学は素人の小生には、いろんな経済用語が出てくるとそこで立ち止まるが、それは気にせずに読み通した。

 先に読んだ『アベノミクスとTPPが創る日本』の内容と重なっている部分が多くあるが、簡単に要約すれば、この失われた10年とか20年とか言われる日本の経済低迷は産業界の努力不足もさることながら、浜田先生に言わせると、日銀の無策により引き起こされたものだと断罪している。

 2008年に起こったアメリカのサブプライムローンを発端とするリーマン・ブラザースの破たんで、いわゆるリーマンショックが起き、アメリカの金融機関が機能しなくなるのではないかという危機に直面したが、その後、アメリカやイギリス、その他ユーロは中央銀行が紙幣を通常の量の桁違いに発行し、危機を乗り切った。
 一方、日銀は通常、または東日本大震災の復興費などを考慮しても、通常の数倍程度しか、円を発行しなかった。
 それがもとで、為替レートは極端な円高に推移し、70円台後半まで高騰し、定着して、輸出産業、とりわけ日本経済をけん引してきた電機業界、自動車業界は苦境に陥った。特に半導体各社や家電メーカは赤字に転落し、大胆なリストラを余儀なくされた。自動車産業も同様で、工場の海外移転が進んだ。

 こういう状況は『日銀のとってきた金融政策の間違いだ』と厳しく指摘している。
日銀の常識は海外の非常識とまで言っている。

 日銀に言わせれば、紙幣を大量に発行すれば貨幣価値が下がり、インフレを促し、その結果、手が付けられない「ハイパーインフレ」になるのが怖いという論法のようだ。これは一面筋が通っているし、間違いではない。誰でも分かる。

 一方で、日銀は日本の経済のかじ取り役を財務省と共に担っているはずである。
紙幣(日本銀行券)の発行権と責任を担っているので、慎重にならざるを得なかったのかもしれない。
 しかし、浜田先生の意見は、海外、アメリカやイギリスの中央銀行が大量の紙幣を一気に発行して、インフレに誘導してリーマンショックの後遺症を食い止めたのだから、日本も同様にすることで為替レートが維持でき、今のようなデフレで経済が縮小し、企業や国民が苦しむことが起きなかったと言っている。

 どうやら、日本の経済学者や、経済評論家や、経済ジャーナリズムなどは、日銀の顔色を見ながら発言や行動をしてきた感じがする。

 それぞれの人は自分の立場や、出世や、生活が懸かるので、日銀に楯突いて、除外され、それが満たされなくなるのを怖がってきた。誰でも自分がかわいいのである。
 浜田先生はアメリカのイェール大学に勤めて、海外から日本を冷静に眺められる立場にある。そういう人は正しく物事が見え、正しい判断ができる。
 松下幸之助創業者がいつも言われていたことに『素直な心になりましょう』という文言があるが、人間の身勝手さ(自己保身)から生じる物事の真相を見失うようになってはいかんという戒めの言葉である。

 日銀も、『間違った方向に日本を誘導しよう』とは決して思っていない。
大量の紙幣発行で、為替レートの円高を円安にすることはできないという考え、加えて大量の紙幣発行で引き起こされる可能性があるハイパーインフレの恐れ、そういう思いが外国ではやっていた桁違いの貨幣発行に対し日本は対応しなかった。
 その結果、今までデフレは止まらず、為替レートが大きく円高に推移したのだ。

 今の安倍政権は、3本の矢を設定し、発信し、取り組んでいる。これは浜田先生の考え方を取り入れている。まず日銀の総裁を更迭した。日銀の基本的な考え方や方向性を正した。
 為替レートは70円後半の超円高から急激に円安になり、今は104-5円前後を推移している。1ドル100円前後であれば、日本の各企業は十分対応することができるので、輸出産業は活気が出てきた。工場の海外から国内移転も報じられるようになった。そうすれば国内の雇用が促進される。結果として、このところの景気状況や、政府の景気判断は上昇に転じたことを示している。
 今のところ、浜田先生のいう方向に動いている。
 今後さらに景気が良くなることを期待している。
ぜひ、この本を読んでみて下さい。でもなかなか骨がありますよ!!



1月12日(日)
「アベノミクスとTPPが創る日本」を読んで
浜田宏一(内閣参与)著
講談社
定価1400円(税別)

株価は?GDPは?給料は?大チャンスが到来した!!
40のQ&Aで知る2015年の日本

 この本はQ&Aの形で、話が展開しているので、大変読みやすい。
説明が簡潔で読んでいて肩がこらない。質問の一部を上げると、
 Q:なぜ、日本経済には金融緩和が必要なのか?
 Q:アベノミクスではいつ個人の収入が増えるのか?
 Q:金融緩和でハイパー・インフレが起きるのか?
 Q:人口が減少したからデフレになったのか?
 Q:大胆な金融政策を行ったアメリカでは何が起きたか?
 Q:インフレ・ターゲットで何が変わるのか?
 Q:韓国がTPPに参加しない本当の理由とは? 
 Q:日本経済にはどのような未来が待っているのか?
 Q:TPPは日本農業をどう変えるのか?
 Q:TPPで日本企業は外資に乗っ取られるのか?
 Q:TPPで日本経済の近未来はどうなるのか?
などなど

 浜田さんの考え方は「リフレ派」と呼ぶらしく、今までの日本銀行や民主党政権時代の政策や、経済評論家の考え方とは大きく違う。
 日本経済の低迷は、『日銀や旧政権がとってきた経済政策の誤りだ』と厳しく指摘している。
 PanasonicやシャープやSonyがサムスンやLG電子に負けたのも、円高の容認で国際競争力が低下したことが要因だ!としている。
 
 今まで、聞かされてきたのは、日本は巨額の財政赤字で1000兆円に上る借金が積み上がっている。だから金融緩和や財政出動は控えなければ、ハイパーインフレに陥り財政破たんするというものだった。

 だから日銀は通貨制限をし、銀行は貸し渋りに徹してきた。結果は大企業すら投資する余裕がなく、中小企業は資金繰りに行き詰まり倒産が頻発した。
 個人生活においても給料が上がらず、むしろ下がることで、さらに消費が低迷しデフレスパイラルに陥っていた。
 
 この現状を2012年年末に発足した第二次安倍内閣では、金融政策の大転換を図った。これが俗にいう『アベノミクス』で内容は3つの矢から成り立っている。 簡単に言うと、
 @大胆な金融緩和
 A機動的な財政政策
 B規制緩和による成長戦略

 まず、大胆な金融緩和を実行した。
これは、今までの日銀がとってきた小出しの金融緩和ではなく、思い切った際限のない金融緩和という手法で、『必要なだけ出しますよ』という発信であった。
 今までは、『ハイパーインフレが起きる!』という脅しでこれはタブーであった。
それを逆に強行した。
 
 この10数年間、日本はデフレに苦しんできたので、今までとは全く違う次元の政策を打たなければデフレ脱却の方向転換ができないことは分かっていた。
一方でそれはタブー視されてきた。
 
 浜田さんの言い分は、そもそも、この日本のデフレはアメリカのリーマンショックが原因であった。その震源地のアメリカはすでにリーマンショック前の景気に回復している。ヨーロッパも同様に回復が進んでいる。
 『なぜ日本だけ10年以上も不況が続いているのか?』という疑問が残る。
それは日銀の経済政策が間違っていたからだ!と断罪している。
 
 アメリカは、経済対策として通常の3倍に上る通貨量を増やし、ドル紙幣を市場に出した。ヨーロッパ同様に増やした。その結果、日本だけが金融引き締めを続けたので、円高が進み、輸出産業が大きな痛手をこうむった。
 自動車産業や、家電産業界が苦しんだという構図を指摘する。

 だから、アベノミクスは『際限のない金融緩和を行う』『必要な多いくらでも』という金融緩和政策をとることで、円高から円安に誘導した。これに成功しつつある。
1ドルが70円台の超円高から、1ドル105円前後の円安に変わった。これは2割以上の為替収支改善になる。
 
 今まで言われてきた1000兆円に上る国の借金を抱えながら、金融緩和をすれば借金が積み上がる、その結果、ハイパーインフレになり手が付けられなくなるという考え方とは全く逆である。
 現在の状況はデフレを脱しつつあるように感じるが、まだ脱出したとは言えない。やはり、給料が上がらなければ、我々国民の実感にはならない。

 もう一つの課題、TPPについても本書は2つ目のテーマとして取り上げている。
これも、安倍政権は今までとは違った取り組みをしようとしていることである。
 それは農業政策だ!
日本の農業、コメは外国産の安いコメに対抗するため778%(約8倍)の関税をかけている。それで輸入を食い止めてきた。
 しかし、TPPを進めるためには例外なき関税撤廃が前提となる。日本の農業、その代表がコメ農家。関税撤廃すればたちどころに立ち行かなくなる。現状でも高齢化、後継ぎがいない、など農村の過疎化や、耕作放棄地が拡大している。
 
 TPPに参加することは、日本が得意とする輸出で稼ぐ分野は大いに稼いで、コメ農家には所得補償して生活保障するという政策をとればいいという考え方だ。  現状でも国際的に弱い農業分野をこれ以上保護するというのではなく、弱い分野は生活ができるように保障する。
 そういう政策転換に取り組もうとしているが、農民や農協(JA)などは既得権益の放棄につながるので大反対運動を展開している。
 
 第3の矢である成長戦略は、むしろ農業をこの際、衰退産業から成長産業に転換をしようという考え方である。日本の農産品は味がよく、見栄えがよく、品質がいいという高い評価を海外で得ている。ただしその分価格は高い。
 しかし海外の富裕層にとってはいいものやおいしいものを食べたいというニーズが高い。十分商機がある。
 そうなれば、量的には多くはないが、付加価値の高い農産品が輸出できるチャンスが拡大する。TPPは工業製品ばかりではなく、農産品についても輸出を拡大できるチャンスなのである。
という話になっている。

 これ以上の詳しい内容は、ぜひ本書を読んで頂きたい。
アベノミクスが思惑通りに展開し、日本経済が好転し、再び元気な日本になってほしいものだ。




20140101
謹賀新年

  新年おめでとうございます。
 
 今年は午年(うまどし)です。
 馬は速く走ることができます。駿馬とも言います。
また、生まれたての仔馬は1時間ほどで立ち上がり、その後すぐ歩くことができます。
 これは草食動物の習性で、生まれたての仔馬は外敵に襲われるチャンスが多いので、早く自分の身を守るため立ち上がり、駆けるようになったのでしょう。
牛も、ヤギも同じように立ち上がることができます。
 また、『何事もうまくやる』ということで、物事が成就する年と言われます。
 
 しかし、計画や決意しなければ、何事も成し遂げられません。
早くも1月10日になり、故人曰く『1年の計は元旦にあり』ということですが、1月半ばまでには、一年の計画をきちんと立てて取り組むことが大切です。
 そういう計画を立てて取り組む人と、年中、のんべんだらり過ごす人とでは、数年もすれば雲泥の差となることでしょう。
 
 私の今年の計画は、この数年間取り組んできた電気主任技術者資格である『電験3種』に合格することです。
70歳になっていまさら何をしようと思っているのか?と自問自答しますが、やりかけたことを途中でギブアップしたくないのです。

 この資格試験は基礎(電磁気学)と機械と電力と法規の4科目です。
科目合格は4科目すべてやり終えましたが、3年間の有効期間内に4科目に合格しなければなりません。これをうまく組み合すことに失敗し、一昨年は法規のみだったのですが、これに失敗し、昨年は法規と基礎の2科目受けて、法規が合格しましたが、基礎に失敗しました。いままで法規に合格したことがなかったのですが、昨年初めて合格できました。
 今年は再度、『基礎』と、『機械』と『電力』の3科目を受けなければなりません。
この数年間、堂堂めぐりをしているような感があります。
 
 記憶力や計算スピードが歳と共に劣化するのを身をもって感じている昨今です。若い頃ならすぐに覚えたり、計算できたことがなかなかすんなり進みません。
腹立たしい思いですが、今年は年貢をしっかり納めようと思っています。
 これが私の今年の目標です。

 このお正月は、二人の娘夫婦と孫3人が集い、いつもは家内と二人のひっそりした我が家が大変にぎやかでした。

 3日は孫の希望で、ホンダの鈴鹿サーキットに行き、たくさんの乗り物に乗りました。と言っても自分はカメラとビデオ撮りに集中しましたので、乗り物には乗っていませんが・・・。

 12月の半ばにフィット3がやっと届きました。やっとというのは3か月待ちでしたから。車のページに少し書きましたが、新しい『フィット3』で鈴鹿サーキットに娘夫婦と私3人と孫一人の4人乗車で行きました。
 走行距離は往復で200kmぐらいです。燃費は25.5km/Lでした。
 乗車人数が多い割に燃費がいいのに満足しています。

 最近の車は、クラスレスという言葉があるように、フィットクラスの100万円台の車でも、今までの200万円台クラスの車とそう変らない内装、外観、乗り心地、静かさ、装備になっていて、大変満足しています。

 この前の車は『フィット2ハイブリッド』で、2年7か月しか乗りませんでした。この車もよくできた車だと思いますが、ハイブリッドという面では完成度がいまいちで、燃費もいまいちでした。高速道路の走行で最高燃費が21km/Lが精々でした。

 プリウスやアクアに比べると、ちゃちいハイブリッド車でしかなかったと思います。
今回の『新型・フィット3』は、本格的なハイブリッド車に仕上がっています。

 プリウスやアクアを超える点は出足の良さです。走り出しはモータで『ヒュイーン』というモータ音が少しします。その後、エンジンがかかります。時速40〜60Kmでてい走行中はモータで走ります。
 
 以前、友達のプリウスに試乗させてもらいましたが、出足が悪くもたつきました。かったるいのです。その点、今回の『フィット3』はハイブリッドらしからぬ?出足で、加速がいいことです。もたつきません。それでいて燃費がいいのです。

 元来、トヨタの車は『つくり』がよくできていて、特に内装の豪華さではぴか一でしたが、今回の『フィット3』は内装面でもシート地や、ダッシュボードの周りの内装材も高級感があります。
 特にドアーはドシっとした質感、重量感と、閉まる際のドシっとした音が何とも言えない高級感をかもします。高級車並みの感じです。

 帰り道、163号線で一部渋滞がありました。その時、ナビが国道を外れて狭い道を案内しますので、そのとおりに走ると、渋滞地域の3kmほど先に出て、合流し、渋滞を回避できました。

 このホンダ純正ナビはインターナビシステムと呼ぶ方式を採用しています。
ナビは今までGPS電波を受信して、現在位置と行き先を表示することでした。
 新しいインターナビシステムは道路情報を常時受信して、渋滞している場合は、側道を探す機能がついています。
 単なる道路地図代わりのナビから、走行中の道路情報を入手しながら、最も適する道路を案内をするように変わっています。さらに、車から時々刻々の道路情報を発信するアップリック機能が付いていますので、インターナビを装着した車同士の間で、最適な走行ができるようになっています。そのデータはホンダのサーバに常時蓄積され、いわゆるビッグデータとして集積され、いろんな面で活用されるようになっています。 これにはびっくりしました。

 今回の『フィット3』には思い切って8インチ画面のものにしました。今までは7インチだったので、見えにくかったのですが、8インチはやはり大きくて、大変見やすく、地図の表示も明るく、老眼には助かります。大正解でした。
ナビのメーカはPanasonic製です。

 最近、シニア割引という制度がいろんなところであり、その該当者になりました。鈴鹿の入場券も割引で入れます。ただし、年齢を証明する何かの提示を求められます。そんなわけで、お正月は賑やかなひと時を過ごしました。
 人によれば、この状態を『豆台風がやってきて・・・』という人もいます。

 今年も、一年、元気に、健康で過ごしたいと思います。
 本年もどうぞ、お付き合いください。