7月20日(土)
車のメッカ、デトロイト市が破綻は他人ごとではない

「アメリカ合衆国、ミシガン州デトロイト市が破綻!」というショッキングなニュースが耳に入った。
 デトロイト市、ここは有名な自動車のビッグスリーの一つGMが本社を置く世界一の自動車生産拠点であった。 フォードは1903年、GMは1908年、クライスラーは1925年創業で、自動車王国アメリカのビッグスリーとして、100年間にわたり君臨してきた。


 フォードの世界発のコンベア            GMの創業の本社と現在の本社

 GM、フォード、クライスラー御三家がここデトロイト近郊に揃い巨大な企業城下町として発展してきた。そのデトロイト市が連邦破産法により財政破綻申請をしたというのである。 一体、『なぜ? どうして?』という疑問が沸き起こる。

 しかし、よく観ると『なるべくしてなった!』という因果が明確にあることが分かる。

 フォード社はヘンリー・フォードがそれまで一台、一台、個々に組み立てる生産方式を変え、ラインによる流れ作業で組み立てる生産方式を考案し、それにより自動車の生産台数は飛躍的に高まった。

 第一次世界大戦後、アメリカ経済は目を見張るほど飛躍的に成長し、1930年代はニューヨークにはエンパイアー・ステートビルをはじめ摩天楼が建ち並び、自動車は広く普及し、モータリゼーション時代が到来した。
 その後順調に車市場は拡大し、アメリカの繁栄を象徴するかのように自動車産業は隆盛し繁栄を謳歌した。

 アメリカ人は『大きいことはいいことだ』という国民性で、自動車は車体がドンドン大きくなり、8気筒で4000cc〜8000ccぐらいの大きなエンジンを積み、ゆったりとした豪華な内装で、柔らかいクッションの車がアメ車(アメリカ産乗用車)の象徴となった。大ヒットした車が数々あり、アメリカの富と栄華を映し出したような光景であった。

 第二世界大戦後も25年間順調に経済発展し、モータリゼーションは大いに進んだ。しかし、いいことはいつまでも長続きしない

 当時のアメリカのガソリン価格は日本の1/4以下で大変安かった。多分1ガロンが1$ぐらいだったと思う。1ガロンは約4リッターなので、1リッターは20円位だった。
日本はその当時、1リッター約70円〜80円だったと記憶している。

 1973年(昭和48年)に第一次オイルショックが起き、がぶ飲みするアメ車は燃費が大変になった。この頃から、アメリカ市場にも、コンパクトで省エネの車に興味を持つ人たちが現れてきた。しかし、まだ大多数は4000cc以上の大型車を買っていた。

 しかし、第二次オイルショックを経験し、1981年から1995年頃になると、小型で低燃費で、しかもよく走る日本車が販売を伸ばし、アメ車の販売に陰りが見えだしたので業界問題隣、さらに政治問題に発展し、日米自動車摩擦を起こし、日本車を叩き潰しているテレビ画面などが報道され輸入制限を課した。

 2005年頃にはビッグスリーは販売不振がますます表面化し、2009年にクライスラーとGMは連邦破産法を申請し、経営破綻した。
これにより、デトロイト市が被った財政の窮迫は計り知れない。

 なぜ、こういう経緯を辿ったのか?
 ものごとの結果には必ず原因があるはずで、その要因に迫ってみた。

(1)アメリカ人の国民性;ユーザ側の問題
  『大きいことはいいことだ!』というおおらかさがあり、何でも贅沢に消費する。
  これはアメリカ人の国民性だと思う。

  小生は松下電器でTechnicsのオーディオの仕事をしている頃、アメリカに何度も  出張した。この国の広さ、経済力の大きさ、走っている車の数と大きさに驚いた。
  オーディオ商品でも、アンプの出力が大きくないと売れない。大パワーで、商品の
  サイズも大きいのが好まれた。
  コンパクトな商品は余りヒットしなかったことを売れなかったと記憶している。

  車はエンジンルームと客室とトランクルームが1:1:1と言うバランスでかっこうが
  良かった。当時のアメリカ映画に登場した車がそうだった。
  アメリカ人は、『車とはそういうものだ!』という感覚がなかなか拭えなかった。
  そういう固定概念にメーカがいつまでも同じコンセプトで造り続けたように思える。

  ヨーロッパ人は車は移動手段と割り切っているところがある。
  安全、安心に乗れて、早く目的地に着ければいいという合理的な考え方だ。
  FF(フロントドライブ)方式はヨーロッパが先行した。車体が小さい割に客室が広く
  できるので、コンパクトな車体で乗れば広いという合理的な車が生まれた。
  ドイツ車はアウトバーンを時速200km以上ぶっとばしても安全で壊れない車を
  造ったし、フランスやイタリアは狭い街路の路上駐車ができる小型車が中心の
  車が多い。
  
(2)経営者の考え方;経営側の問題
  中長期的な研究・開発(R&D)や、工場の生産合理化のための設備投資を軽ん
   じて、株主重視のため短期の利益確保に重点を置いた。
  しかし、オートマチックトランスミッションや電子燃料噴射装置など、アメリカで開発
  されて、現在、車の常識になったものもたくさんあるが・・・。
  しかし、現状を見るなら、車の電子化や、ハイブリッド化や、省燃費・低燃費化や、  排ガス対策や、コンパクトな車体を造る技術開発が遅れたと言える。
  その隙間に乗じて、日本メーカがコンパクトで省燃費の車で輸出量を急激に拡大  した。そういう車造りの技術開発は一朝一夕にできるものではなかった。
  アメリカの御三家は新しい時代の車造りに乗り遅れた。
  ハイブリッド車に至っては、まだ発売されていないので、日本車の独壇場になって
  いる。GMはハイブリッド車の開発はスキップして、次期の車はEV車に特化する
  ような発表をしている。
  
(3)UAW(全米自動車労働組合)とのなれ合い;組合との問題
  わが世の春を経験した組合は、その味わいが忘れられない。
  組合は既得権を建前に、人件費、手厚い年金や医療など高福祉を要求。
  会社は慢性的な高コスト体質になってしまった。
  組合は経営の実態をもっと会社側と真剣に話し合い協力する姿勢が必要だった。
  経営が破綻しているのに、労働条件の改善を要求するのは自滅の道だ!

(4)国内市場の大きさ;市場の問題
  世界一の経済大国、アメリカは日本の3倍以上の市場規模がある。自国の市場
  が巨大であれば、内だけで十分であり、外に売る心配はあまりしなくてもいい。
  日本や韓国、特に韓国は自国の経済規模が小さいので、自国向けだけでは
  工場が成り立たない。そこで輸出に力を入れざるを得ない。日本はその中間的
  な存在。韓国が最近急激に伸びたのは輸出相手国のユーザを徹底して調査し、   ニーズにあったものづくりを徹底したからだ。
  コストや品質やニーズを敏感に感じ取り、徹底したものづくりを心掛けなければ
  ならない。それが世界で生きてゆくことである。
  アメリカの御三家は、会社が傾いているにも関わらず、その対応ができなかった。
  その裏には、自国に大きなマーケットが依然存在していたからだ。

(5)地球環境の変化;排ガス規制の問題
  無数の車から排出される排ガスによる地球温暖化で異常気象が発生しだした。   各地で大洪水や、熱波などが起こり、南極や北極の氷が解けている。
  4000cc以上の大容量のガソリンがぶ飲みエンジンの必然性が問われ出した。

(6)石油の価格高騰;石油の枯渇問題
  無尽蔵と言われていた石油が大量消費により、今後、5〜60年で枯渇するとも
  言われ出した。そうなれば燃費の悪いドカ食いするエンジンは見捨てられる。
  最近はアメリカでもガソリン価格は日本と大きな差が無くなってきた。
  1リッターで3〜4kmしか走らない車と、20km以上走る日本車ではおのずと
  勝負がついている。

 このように、一つ一つ問題を観ると、如何に巨大な企業であれ、企業規模に関係なく、社会の環境に応えられなくなったとか、消費者ニーズに合わなくなったとかすれば、途端に脆く崩れゆくことを示している。
 企業が生き残るには、環境の変化に対して対応できるかどうかである。

 昨今の日本の家電メーカの経営の行き詰まりも、真の原因は何かをしっかり見極めなければ、第二の自動車御三家になる。
 単に従業員をリストラして人件費(固定費)を削減し、つじつまを合わそうとする経営者が非常に目につくが、それで果して企業の再生ができるのだろうか?

 また、企業城下町だった守口市や門真市は第二のデトロイトに匹敵するほど厳しい財政環境に落ちいているのではないかと心配している。日本にはそういう企業城下町が沢山あるはずだ。

 経営者は『屋台のそば屋』の精神に立ち戻り、日々の勘定を合わせる努力をしないと、簡単に従業員に手を付けるようでは本末転倒だ!と言いたい。
 
 従業員に厳しく接することは上司や社主(責任者)の責務であり、これが『ものを造る前に、人を造る』と言われた松下幸之助さんの真髄だと思う。
 今は、厳しく指導する訳でもなく、勘定が合わないから切る! そういう会社が大変多くなった。大変残念なことだ。そのくせ、社長以下トップは責任を取ろうとしない。
引責辞任はともかく、役員年俸は経営が立ち直るまで全額返納するぐらいの意気で取り組んでもらいたい。そうすれば従業員の士気も上がる。今は、その逆になっているような気がする。

 アメリカの自動車産業の凋落、その結果、アメリカを代表し、いや世界を代表した車の城下町、デトロイト市が財政破綻する時代になった。
 お金のある社員は住居を市外に転居し、デトロイト市は廃墟になっているらしい。
街灯の4割は消灯したままで、殺人事件は頻発している。そういう危険な街になった。
ここまで来ると、都市の再生は非常に難しくなる。
所得の高い住民が増えなければ、低所得者の人口が増えれば増えるほど歳入が減り、財政支出が増える。悪化の一途を辿る。悪循環である。
日本も他人事ではない!
それに近い都市が増えているような気がする。

この問題の真因は、グローバル化やボーダレス化が進んだ結果、自国だけでは成り立たない、自国だけがいい思いをすることができない』という世界大競争時代が育んだ現実の姿だ!と言える。 
今後ますます、世界大競争は留まることを知らず進んでゆく。

 日本が現状の豊かさ、さらに、それ以上の豊かな生活を続けたいのなら、何によりどころを求めるべきか?  
 
その答えは人材である。 
 優れた人材は、人の教育によるしかない。

 教育を最重要課題として取り組む事である。

 自民党は明日の参院選で大勝するだろう。
これで、衆院と参院のねじれが解消できる。
そうなれば公約通り思う存分、政治を前に進めてもらいたい。
しかし、何に向かって進もうとするのかが見えない。
アベノミクスの3本の矢の2本は今のところ、うまく当たったかのような状況にある。
後の一本の矢が当たり、成功するか?

日本をどういう国に牽引するのか?
日本国内に第二のデトロイトの都市を造らないために、どうするのか?
難しいかじ取りが必要になるが、これが大競争時代の大きな課題だと思う。

しかし、現実はしずかに進行している。
地方都市に行けば、シャッター通りが非常に多くなっている

7月15日(月)
停電が殆どなくなったのはなぜ?

  夏は夕立の季節。
 この夏は猛暑が続いていて、このままでは体が溶けそうだと思っていたが、やっと夕立があり、この3日間は30度前後の過ごしやすい日が続いている。
夕立と雷は付き物で、雷三日と言われ、一昔前は雷が鳴ると、よく停電した。

余談だが、昔、子供の頃、親にへそを出していると雷さんに取られるぞ!とよく言われた。これは全く技術的なことではない。
地震、雷、火事、親父と同様に、怖いものを表したことかもしれないし、子供が自他楽な身なりをしないように、親がそう言ったのかもしれない。
 
 雷は直撃雷と言って、空から直接火柱になって落ちる雷がある。その光景は時々テレビや新聞に出ている。すさまじい音と共に落ちるので、大変怖い。
 電圧は数億ボルトにもなり、非常に高い電圧で、電流も瞬間的には非常に大きい。
 でもこれはごく短時間(数mS)(1千分の数秒)に流れる電流である。

 この直撃雷をまともに受けると、木の枝が裂けたり、家が火事を起こしたりする。人間に落ちると命を失うこともある。もし車に落ちると、中に乗っている人はどうなるのだろうか? 結論はどうもない。安全です。
 これは高い電圧は表面を流れるので、車の内側に電気が入ってこないのです。
不思議な話ですね。

 直撃雷と、もう一つ誘導雷という落雷があります。
これは直接、建物や電柱に雷が落ちるのではなく、雲と地表面に数億ボルトという高い電圧が貯まり、それが直撃雷によって一気に放電して無くなると、今まで溜まっていた電気が逆に行き場を失って、電線を通じて伝わることです。
 この電圧もばかにならなくて、電柱のトランスや、配電線を通じてテレビやその他の電気製品を破壊することがあります。
もし、電柱のトランスや変電所のトランスなどの設備が破壊されますと停電します。

 昔は雷が近くでなるとよく停電しました。最近はほとんど停電することがありません。この直撃雷や誘導雷の高い電気を土地に逃がす工夫が随所に施されています。
このおかげで、最近は雷が鳴っても、あるいは落ちてもあまり停電しなくなりました。その部品とは、下のような形のものです。
       
 上の写真は良く見かける一般的なトランスが付いたコンクリート柱(電柱)です。
一番上に張っている電線は、高圧線(6600V)です。
高圧線から、下のトランスに直線でつないで、トランスで100V−0V-100Vの電圧に変換(変電)します。それを各家庭に配電します。トランスの下には電話線や光回線などの弱電流電線と言われる線が張られています。
この電柱の一番上に、横に取り付けた四角のアングル(鉄棒)に下の写真のような部品がついているのが見えます。
       
 碍子は2個直列につながって、電線をひぱっています。電線から伸びた電線が一見、碍子のような3つの部品(赤い丸の中の部品)につながっています。
3つ付いている理由は、3相交流だからです。
       
この部品が落雷による停電を防いでいる『避雷器』です。
上側には6600ボルトの電線がつながり、下側にはアース(接地線)がつながっています。この避雷器は、6600ボルト付近の電圧に対しては、非常に大きな抵抗値を持っていますので、完全に開放した状態で、電流はほとんど流れていません。
雷のように、非常に高い電圧が送電線を通じて迷い込んでくると、この避雷器は高い電圧に対して、抵抗値はゼロを示しますので、高い電圧をアース線を通じて土中に逃がす役目をします。
この碍子のような部品(避雷器)の中には、ZnO2(酸化亜鉛)という物質が入っています。この物質は、上記のような電圧に対する抵抗値の特性を持っているのです。
これは古い話ですが、松下電器の無線研究所で発明し開発したものです。

 これをうまく使い、電柱の高圧線につないで、雷電圧から送電システムを保護しているのです。
おかげで、夏の夕立の雷さんによる停電が無くなりました。
夏の豆知識でした。

7月12日(金)
喉もと過ぎれば、熱さ忘れる!

 私たち、日本人は融通不断な国民性だとつくづく思う時がある。仏様に手を合わすと思えば、正月は初詣で神社に行き、手を合わす。実にうまく使い分ける国民だ!

 神様は何か願い事をする時に詣でる。仏様は先祖の供養や葬儀や何か後ろ向きな行事に関することが多いように感じる。仏前結婚式 というのもあるので、これも必ずしも適確な見方ではないかも知れない。

 信仰という面で、神様、仏様を有難く拝み、二つも器用に拝めるのは日本人ぐらいだと思う。外国人には理解しがたい日本民族の大きな特徴ではないか。

 海外では、信仰や宗教に命を懸けた戦いが今なお、繰り広げられている。以前はキリスト教でも宗派間の戦いが起きた。古くは十字軍がある。現在はイスラム教の宗派間の戦いがテレビ報道番組を賑わせている。

 元来、宗教は人々の苦を助ける(救う)ために発生したものだと思うが、それが自分の信じる宗教や宗派が正しいという一念で、命を懸けた戦いをする。人間の一途というか、信念はすごいと思う。

 さて、今年の夏は猛暑になっている。土用の3週間も前から、35度を超す日が続いているので、このまま温度が蓄積すると、どこまで気温が上がるのか?心配だ!

 ここまでは前置きとして、今日のテーマは喉もと過ぎれば、熱さ忘れるです。
 忘れもしない2年前の3月11日、フグを食べに伊勢湾にある日間賀島に行く途中、知多半島の高速道を順調に南下して走っていた。カーラジオから地震の警報音がけたたましく鳴った。車を減速して道路の左に寄せて徐行した。
 ラジオからテレビに切り替えて、大地震が東北の海岸沿いで発生したことを知った。その後、続々と情報が飛び込んできた。

 大津波の映像は、今も忘れられない。それまで津波は高い波だと思っていた。テレビを見て、海面が盛り上がってくる、そのすさまじさに今まで持っていた津波のイメージを一変した。

 その後、福島第一原発が緊急停止したというニュースが流れた。今まで、原発は地震が起きると、緊急停止する仕組みになっていることは知っていた。
 緊急停止すれば安全だとそれまで思っていた。ところが原発は緊急停止しても、火災が消火したのとは全く意味が違うことを知った。

 このページでも、同様なことを以前に何回か書いたが原子炉が緊急停止するということは、連続した核分裂反応(臨界状態)が停まったということであり、核分裂反応は引き続いて起きていて、徐々に減ってゆく。
 
 
冷温停止という言葉があるが、この状態まで冷やし続けないと、核分裂による発熱で高温(1500度以上)になり、燃料棒や厚さが30cmもある鉄の格納容器(炉心)や圧力容器と言われるコンクリートの分厚い壁までどろどろに溶かす。
 そうなれば、もう人間が近づけなくなり、広大な土地に放射能がまき散らされる。
福島原発は、そういう状態になっていた。幸いなことに炉心は爆発しなかったが・・。
 これも当初は東電はひた隠しに隠した。随分後で炉心溶融(メルトダウン)認めた。

 今も、溶けた鉄の格納容器や圧力容器に直接水を注ぎこんで、溶けたウラン燃料を冷やし続けている。沢山の冷却水が注がれるので、燃料に接触した高濃度の汚染冷却水がタンクに入れられ、置き場所がないほど一杯になっている。これからもどんどんタンクは増え続ける。どうするつもりなのだろうか?

 まだまだ、原発事故は終息していない。今後、何十年かかるか分からないが、そういう気が遠くなるような年月をかけて、溶けたウラン燃料を取り出して安全な容器に移し替える危険な作業をしなければならない。人間が手でつかんで、容器に入れるなどできるわけがない。近づくだけで、即死の状態になる。

 もし、チェルノブイリのように炉心が爆発していたなら、多分、東京でも住めるかどうか分からなかった。栃木や埼玉県は住めなくなっていただろう。
 そういう瀬戸際の間一髪という状況の中で、現場の人々の命を懸けた踏ん張りと、いくつかの幸運が重なり、神様は日本を見捨てなかったというほかはない。

 言いたいのは、非常時に事故が起きると、人の手ではどうしようもないのが原発だ。当時の発電所の責任者であった吉田所長が一昨日、食道がんでお亡くなりになった。私の手元には数冊の福島原発に関して記述した本がある。
 『死の淵を見た男』と題した単行本(門田隆将著)は、次々と展開する危機的状況を詳しく述べている。戦場というものと違った危機が迫ってくる。
必死の闘いといくつかの幸いが炉心爆発を食い止めてくれた。この本は既に以前、このページで紹介している。詳しくはここをクリックしてください。

 我々は、今、この凄まじい事故をもう一度、思い出してみる必要がある。

 参院選挙で、早くも原発再稼働が争点の一つになっている。事故の原因や終息ができていない内にである。自民党は世界一の安全基準で審査するから、新しい安全審査に合格すれば再稼働させるという立場で訴えている。

 世界一の安全水準の安全規格で審査すれば、なぜ安全なのだろうか?
『本当に安全ですか?』という問いに対して、むやむやとした答えになる。

 世界一の高いレベルの安全基準ということは、基準が厳しいということ。
しかし、そのことと本当に安全か?という問に対して、はいとは言っていない。
自民党は『安全です』とは言い切っていないのである。
電気が足りないから、安全基準を高めた原発からそろそろ稼働させたい!というのが本音にある。電力会社の経営状況からして分からないことはない。

 いくら安全基準を上げても、原発を動かすには、絶対安全でなければやってはならない。世の中に絶対安全なるものは存在しない

 だから、事故は起きるかもしれないが、万一事故になっても、住めなくなるような事故や人命・人身事故(シビアアクシゼント)にならないような対策を打つということで、安全だと言っている。
 あくまで、人間が想定した理屈上の判断で、これ以上のことは起きないから大丈夫だということ。福島原発はその想定を上回った。その時、『想定外』という言葉で片付けようとした。思い出してほしい。ここまで厳重に徹底してやったから大丈夫だという
その想定が自然の力の前には、非常にもろいものである。

 たとえば、世界遺産で騒いでいる富士山はつい数百年前の江戸時代に大爆発を起こしている。浜岡原発は富士山に近いところにある。富士山が爆発し、巨大な地震が起き、膨大な量の火山灰は降る。大地震が起きる。
そういう非常事態が近々高い確率で起きると言われている。そうなった時、新幹線はどうなるのか、送電線は破壊されないか、高速道路は分断されないか、溶岩流が流れて広大な舵を起こさないか、その他いろんな社会インフラシステムが破壊され、働かなくなった時でも、浜岡原発の安全が保たれるか?
 停電でも冷却できるジーゼルエンジンを用意することになっている。相当大量の軽油を食うので、燃料の補給をしなければならない。道路が分断されたらどうする?
海からタンカーで給油する。しかし、そういうふうに準備ができているのか?
多分そういう前提では考えられていないと思う。燃料の軽油はタンクに何時間または何日分貯蔵しているから、その間に送電線が復旧すればいい!というはずだ。
しかし、燃料タンクが噴石などで破壊されたらどうなるのか?
いろんな角度、あらゆるリスクをピックアップして対応しなければならない。

 原発は何が起きようが、動かしたら冷温停止まで収束させなければならない。
そのためには、どういう対応をすればいいのか?。
現状の考え方は平常時に、異常(事故)が起きた場合の想定が中心になっている。
むしろ、非常時に異常(事故)が起きた場合、どう対応できるかを考え演習する必要がある。
 避難する場合も、平常時に原子炉が事故を起こした場合は、避難は比較的簡単にできる。車に乗って遠くに行けばいい。どこに向かうかは、テレビやその他の情報を入手できる。しかし、非常時に、山崩れが起き、道路が分断され、停電し、テレビも使えない、電話が通じないというような状態で、どうして安全に、適切な非難ができるのだろうか?

 そういう視点で、もっと全体像を見て、深く掘り下げた取り組みをしないと、「世界一高いレベルの基準を作って審査し、合格すれば再稼働させる」というのは、全く賛同できない。

 現状では、原発の再稼働は絶対すべきではない。
自民党が再稼働に同意、再稼働推進させたいということであり大変残念だ。
その裏には、電力業界との癒着は当然あり、やっぱりそうか!と言いたい。
金よりも、将来のエネルギー政策はこうあるべきだ!というビジョンを示すこと。

  電力不足をクリアするため、日本が持っている技術や知恵を集結し、原発に頼らない自然エネルギーの活用する新技術を国が大きな補助金を出して取り組むべきだ。原発に出している各種の補助金を回せば十分な額がある。
自然エネルギー発電が整うまで、つなぎとして最小限の原発は必要悪として稼働させるということなら、まだ納得はできる。

 しかし、現状では一度、再稼働の縛りを解けば、間違いなく、電力会社はなし崩し的に全国の原発を再稼働し、再び巨大地震や津波などの災害に遭遇する運命にさらされる。
 残念ながら、福島の二の舞を起こすことになるだろう。そうなれば日本の未来はない。我々は、『忘れてもいいことと、忘れてはならないこと』をしっかり仕分けしよう。
 “No more Fukushima !”

あの福島第一原発事故の際の緊迫した場面を忘れてはならない。

7月10日(水)
成功するための着眼は?
単眼で見るか・複眼で見るか?

 例として、自動車のメーカの取り組みを上げてみる。
 マツダは他社が低燃費車の開発競争でハイブリッド技術開発に流れている中で、エンジンそのものの効率を高めることで成功している。
 車のエンジンは、ガソリンや軽油が持っているエネルギー利用効率は20%から精々30%台にしかならない。これがもう限界だと諦めれば進歩はない。これをもっと高められれば低燃費が実現できる。そこに、大きな余地がある。

 しかし、世界中の自動車メーカがしのぎを削って取り組んでいることであり、そこに高いハードルや壁がある。この壁を乗り越えた者だけが勝利を掴める。
 壁が高い程、今までと同じやり方ではクリアできない。発想の転換が要る。
マツダは、新しいエンジンの開発に成功し、それを『スカイアクティブ』と呼んでいる。

 成功のもう一つの要素は、ジーゼルエンジンに力を注いだこと。
ジーゼルエンジンは、燃費が良い、馬力が強い、トルクが大きい、軽油がガソリンより安いというプラス面の特徴を持っている。逆に廃ガスの問題(黒い煙が出るなど)、音がうるさい、振動が大きいと言うマイナス面の特徴がある。
世の中はおかしなもので、良い面があれば、必ず悪い面がある。

 原発は100万KW級の発電所を何十年も稼働させられるという面と、事故が起きれば放射能の漏れなどの危険、リスクの大きさは計り知れないというマイナス面がある。

 話を戻して、マイナス面を最小化し、プラス面を最大化できれば成功できる。
マツダは新しいジーゼルエンジンを開発し、ジーゼルの欠点を見事にクリアした。
そのご褒美はヨーロッパ各国に輸出して大きく販売が拡大できたこと。
 海外ではハイブリッドシステムは、低燃費を実現する技術の一つとしか捉えられていない。
 ハイブリッド車は、プリウスを筆頭に世界中に広まったが、モータと電池を積まなければならない。その分のコストアップは絶対避けられない。しかも、モータや電池は結構、重量があり車体が重くなる。重い車は走りが悪い。

 ヨーロッパやアメリカ人は合理的で、車はよく走って、シンプルで廉くて、しかも排ガスや燃費が良ければいいという考えを持っている。
 先進の技術を満載した車に人気が集まるわけではない。
 そういう市場には、マツダのスカイアクティブエンジンと、それを搭載した車はヨーロッパ人志向にぴったりはまっている。

 『技術に限界はない! しかし、理論には限界がある。』
ガソリンの持つエネルギーは理論値でこれこれだとする。この値は変えることができない。現実の車のエンジンは、その内の20数%しか有効利用されていない。
それなら、理論値にいかに近づけるかが技術開発の課題になる。

 そういう意味で、マツダはエンジンに対して正面から向き合って取組んだ会社。
ハイブリッド車はエンジンの欠点を補うためモータが持つ特性を生かして、両者で補完して最大効率を発揮できるように取り組んだシステムだと言える。

 『燃費の改善、排ガスの低減』という課題に対して、違った角度から技術開発をした面白い例だ。
 穿った見方をすれば、単眼で見るか、複眼で見るかと言えるかもしれない。


7月9日(火)
やはり、原発の再稼働を許すのか?

  参議院議員選挙が7月21日に行われる。参院選はあまり盛り上がらない。
今回はアベノミクスで景気が浮揚しかけているので、多くの人は自民党に投票する
ことになるようだ。
 確かに、民主党時代は期待が大きすぎた反面、不慣れな政権運営で散々な結果に終わった。その反動が自民党への期待にスリ変わっている感じがする。
それは理解できないことはない。自分もその一人かもしれない。

 しかし、自民党は衆議院の圧勝と、参議院の勝利を確信したような振る舞いに出ている。その一つが原発再稼働を堂々と容認したことだ。

 『ノーモア広島』という言葉がある。同様に、『ノーモア福島』である。
アベノミクスで株価の上昇を促し、景況感に風穴を開けたことは認めるが、3本の矢の残りは不透明だ。
 
 私は原発だけはどうしても絶対に反対の立場である。それには理由がある。
世の中に、危険なものはたくさんある。車だって安全運転をしないと危ない。飛行機だって浮力と重力がバランスして飛んでいるので、このバランスが崩れると100%落下する。そういう意味では飛行機は車より危ない。
飛行機の安全が信じられないなら、乗らなければいい。それだけのこと。

 しかし、原発はそうはゆかない。これ以上の危険物はないのだ。
原発ができる前は火力や水力発電していた。今もしているが・・。
火力は石油や石炭や天然ガスを燃やして、その熱で蒸気を発生し、そのエネルギーでタービンを回わし、回転エネルギー(機械エネルギー)に変えて、発電機を回し、電気エネルギーに変換している。
発電所とは、そういうエネルギー変換所である。

 水力発電は水の落差を利用し、重力による位置エネルギーを運動エネルギーに変えて水車を回して発電機を回す。これは自然の水の流れと同じだから何の問題もない。ダムを造らなければならないので、景観その他の環境の問題はあるが・・。

 火力発電は、化石燃料を燃やす。燃えるということは、炭素が酸素と結合すること。その結果、炭酸ガスや水やその他の酸化物(酸化窒素など)と燃焼熱を出す。
化石燃料は炭素と水素を中心とした化合物で、燃えること(酸化すること)により、分子が変わることを意味する。火力発電は分子が変わることで熱を出す、その熱を利用していた。

 原子力は全く次元が違う。
理科の時間に習ったことを覚えていますか?
原子は原子核とその周りを回る電子で出来ています。原子核の中には電気的に中性の中性子と、プラスの電気を帯びた陽子と、その他の中間子と言うようなものからできています。目に見えませんので、何とも言えませんが…そういうことになっています。
 原子力はこの原子の原子核を壊すことで、巨大なエネルギーが出ることをアインシュタインは相対性理論で発表しました。
 そのエネルギーは1グラムのウラニュウムが原子核崩壊すると6000トンの石炭に相当する熱だと言われます。
 
 原子核が壊れると、全く別の物質に生まれ変わりますが、この時、不安定になった原子核はα線、β線、γ線と言う3種類の放射線を出します。その放射線が互いの原子核をさらに壊し、ドンドン別の物質に換えてゆきます。

 原発にはウラン燃料を使いますが、ウランは大変重い物資で、原子核内にたくさんの中性子や陽子を抱えていますので、外から放射線を当てると、比較的簡単に壊れるのです。壊れると、崩壊熱を出す、その熱を利用してお湯を沸かし、発電するのが原発です。
 この原子核の崩壊、即ち崩壊熱を安全にコントロールできれば原発は安全面と言えます。
燃えカス(放射性廃棄物)の処分は未解決な大きな問題として残っていますが・・。

 自民党は、世界一高めた安全基準に則り原発の審査をするから大丈夫だと言います。安全基準をいくら高めても、それを上回る自然災害は起こり得るのです。
巨大な地震、地殻変動、津波、そして人的なテロによる原発施設の爆破、そういう事態に万全の策はあり得ないのです。何が起きても安全なものはあり得ません。
しかし、原発を稼働させるには、何が起きても安全でなければならないのです。崩壊熱は安全にコントロールできれば、原子力の利用は有効かもしれません。
しかし、安全にコントロールすることが100%できなければやってはならないのです。
 安全基準は世界一レベルの高いものかもしれません。しかし、日本は世界一の火山や地震が頻発する国です。世界を旅行して地震を知らない人たちがたくさんあります。日本は毎日のように揺れています。
そういう日本で、『世界一レベルを高めた基準で審査するから大丈夫だ』とどうして言い切れるのでしょう。冷静に考えれば、誰だって安全だと言えません。

 電力会社は原発が停止して、火力発電に頼っているので、燃料費が高くつき経営が逼迫し、赤字だと言います。それなら電気代を上げて下さい。
その代り原発は廃炉にして下さいと言いたい。

 原発という巨大な設備を抱えて、その中にはすでに使えるウラン燃料が入っているのに、それを使わずに今まで停めていた火力発電所を動かし続けることが、企業としてはやりきれないのでしょう。それが本音です。

 電力会社の天皇の東電すら、一度事故が起きると瀕死の状態になるのです。
これが再稼働になり、神の怒りを受けて、どこかの原発が再度、シビアアクシデント(炉心事故)を起こせば、日本はもう立ち行かなくなることは明白です。
 
 そういう事故はもう起きないという前提で、自民党は再稼働を推進していますが、本当に政権党がそういう態度でいいのでしょうか?
何をもって、自民党は安全を担保できるのでしょう?

 電力会社から今まで巨額の政治献金をもらっていたから、いまさら連れなく『再稼働は認めない』というわけにもゆかないだろう!という本音が見えてきます。

 夏の電力不足は心配です。
でも、無駄使いを徹底して無くし、学校ではエネルギーの大切さを教え、国民が全員で電気の無駄使いを無くせば、クリアできます。
 そして、世界一レベルの高い安全基準?を満たすため、補修工事に数百億円もかけるのなら、その金で天然ガス火力発電所を建設する。さらに超高圧直流送電線ネットワークを日本の背骨として張り巡らせることで、北海道から九州まで電気の融通ができるようなシステムを造り上げる。

 そういうダイナミックな将来のビジョンを先取りする施策を打ち出すのが政権党の自民党の役割だと思います。自民党がしがらみで、それができないのなら、民主党、維新の会、みんなの党にやってもらいたいものです。

 そういう意味で今回の参院選挙は経済面では自民党に賛成しますが、原発再稼働では自民党に絶対反対で投票ができません。
でも、意思表示するために投票には参ります。

6月26日(水)
 新型アコードハイブリッドに試乗した!  

 6月21日に発売された『新型アコードハイブリッド(HV)の試乗車が入った』とホンダ交野星田店のセールスの山田さんから電話を頂いたので乗ってみた。

 若い頃から車に対する興味が尽きない。特に近年は燃費競争で、トヨタの『プリウス』に代表される超燃費性能がドライバーに受け入れられて、爆発的な売れ行きをしている。プリウスはHV(ハイブリッド)の代名詞になった。その後の『アクア』 はプリウスを上回る燃費で、世界トップを快走している。

 その後、トヨタはこのハイブリッドシステムをカムリやクラウンやレクサスなど高級車にも展開し、さすが商売上手のトヨタさんらしく圧倒的な販売を誇っている。

 初代のプリウスから、戦略的な低価格の値付けで、多分大赤字だったと思う。
 しかし、圧倒的な販売量を前提に部材メーカの協力やコストの低減を図り、2代目、3代目とプリウスは性能向上を図りながら、コストを抑えて、販売価格もリーゾナブルな範囲に抑えてきた。さすがトヨタさんと感心する。

 現役時代に、ものづくりをやってきた者にとって、プリウスの内容を持った車が200万円少々で買えることは考えられない。それほど戦略価格だ。
 その後のアクアはさらに戦略的な値段で、170万円少々で、トヨタはこの分野で他を圧倒して独り勝ちが続いている。

 この状況を、ホンダやニッサンやマツダが指をくわえて見ているはずがない!

 ホンダは大ヒットのフィットにハイブリッドを積んで出した。これは簡易型ハイブリッドシステム(IMAと呼んでいる)で、エンジンとモータ(発電機にもなる)が直結していて、運転時は常にエンジンがかかっている。いわゆる電動自転車のようなもので、ペダルをこぐ力はモータでアシストされるので、足やエンジンに負荷は余りかからないが、モータだけで走行するパワーがモータに持たせていない。
 またブレーキを踏んだ時のエネルギーの回生も、エンジン直結なのでエンジンブレーキがかかり発電ロスが大きく、回生エネルギーが十分得られないという欠点があった。

 ただ、このIMA方式はシステムが簡単なため小型車向きで、軽量で安価に実現でき、そこそこの燃費改善ができた。ガソリン車のフィット1300は1リッタ当たり、街乗りで14〜15Km、高速道路で18〜19kmぐらいになる。
今、乗っているフィットハイブリッド(1300cc)は街乗りで15〜17km、高速道路で20km〜21kmぐらいになる。
 聞くところでは、アクアは街乗りで22〜24km、高速で24〜25kmほど出るらしい。これは人に聞いた話なので、自分で確認したわけではない。
 以前、長野県でプリウス1500(第2世代目の車)をレンターして、運転したことがあるが、確か17km/Lぐらいしか走らなかったような記憶がある。

 それはさておき、『ハイブリッドはトヨタ』という定番になってしまっていた。
そこで、ホンダがホンダ魂を呼び起こし、起死回生を狙って造り上げた車が、今回発売された新型アコードハイブリッド 

 21日に発売されたので、『いつ販売店に届くのか?』と思っていたら、電話があり、早速、試乗させてもらった。
 ホンダの販売店はキーを渡してくれて、『自由に走ってきて下さい』という。
 こちらがフィットのユーザでもあるので、信用してそう言ってくれるのかどうか分からないが、これがトヨタなら、助手席にセールスマンの方が座り、試乗で運転中横から「その信号を右に、そこを左に」と言うようなコースを指示され、試乗運転することになる。今はどうか分からないが、以前に試乗させてもらった時はそういうやり方だった。これでは、自分の思うままに走れないので、本当に車を走らせた、試乗したという実感が得られなかった。

 さて、新型アコードを30分間ほど借りて運転した感想は?
 今まで、ブルーバード1300、サニー1200、ブルーバード1800、コロナ1800、アコード2000、クレスタ2500(直6)、インスパイア2500(V6)、フィットハイブリッド1300と、8台乗り継いできたが、どの車にもなかった未体験の加速の凄さ、伸び、応答性、音の静かさに驚いた。これは確かに異次元の車に仕上がっている。アクセルを踏めば踏んだだけ、すぐ応答する。タイムラグは全く感じない。自然に加速する感じで、こんな車に乗ったのは初めてだった。
ブレーキも大変素直に直線的に効く感じ。

 走行音も大変静か。ロードノイズも聞こえないほど抑えられている。
 
 これはクラウン以上に静かな車だと思う。高級感もある、造りがしっかりしている。しかしその分、車重が重い。何と1600kg以上もある。これで燃費が何とリッター30kmだそうだ。

 本当にこんな重い車が軽自動車並みの燃費で走るのだろうか?
実燃費がどれくらいなのか?、いずれ近々、自動車各紙に掲載されるだろう。
 もし、これで20km/Lぐらい走れば、今、乗っているフィットハイブリッドと同じになる。フィットは車重が1トン少々なので、優に大人6人分以上の重さの違いがある。技術の進歩は大変な省エネルギーを実現した。

 この新型アコードはモータ(発電機)を2つ積んでいる。簡単に言えば、通常の発進や通常走行はモータで走る。加速時はエンジンがかかり、発電機を回し、その電気で別の走行用モータを回して走行する。高速道路で定速走行する時はエンジンで走る。
 要はエンジンとモータをもっとも効率のいい状態で使ったシステムと言える。
 ブレーキを踏めば、発電機で回生発電してリチュウムイオンバッテリーに充電する。
 モータは基本的な特性として、静止した状態から回転を始める時に最大トルク(回転力)を発生する。だから車が止まっている状態から動き出す際はモータで駆動するのが一番効率がいい。ただし、この時に大きな電流(電力)が必要になるので、バッテリーは大きな容量がないと十分性能が出せない。今回の新型アコードは大容量リチュウムイオン電池を搭載している。

 ちなみに、トヨタのプリウス、アクア、カムリ、クラウンなどは信頼性の高いニッケル水素バッテリーを搭載している。同じ重量の電池なら、リチュウムイオン電池はニッケル水素電池の約2倍の容量がある。また、電池一個当たりの電圧はリチュウムイオンは3ボルトに対して、ニッケル水素電池は1.5ボルトと半分なので、直列にたくさんつながなければ、高い電圧が得られない。その分、電池の重さやサイズが大きくなるので、車重が大きくなりや収納スペースも食う。
 さらに、リチュウムイオンバッテリーは内部抵抗が低く、大電流が流れる発進や回生充電時の性能がニッケル水素バッテリーより優れているので、発進や充電時のロスが少なく効率がいい。そういう面でも新型アコードは一歩、先に出た。

 このリチュウムイオン電池は、GSユアサと共同開発したものを使っている。
GSユアサと言えば、先般、ボーイング787で発火や煙のトラブルを出したメーカであるが、電池そのものに問題がなかったような結論だ。(これは余談。)

 トランクルームの奥(後部シートの背もたれの部分)にリチュウムイオン電池を搭載しているので、トランクの奥のスペースが電池収納部に使われ、奥行きが少なくなっている。これはHVなので仕方ない。

 さて、余りにも走行音が静かなので、聞こえる音はモータの『ヒューン』、『ヒューン』という独特の高い軽快な回転音だけが聞こえる。エンジン音はほとんど聞こえない。だからこのモータの軽快な回転音は乗る人によって耳に着くかもしれない。それほど静かと言うこと。

この車の価格は360万円〜になっている。
自分が20歳ほど若ければ、この車に乗ってみたい!が、今はこの大きさの車は取り回しが厄介だ。やはり、フィットのサイズがちょうどいい!

 今乗っているフィットハイブリッドの最大の欠点は、信号待ちでエンジンストップすると、エアコンが停まり、夏はすぐ室内が暑くなること。これはいかんともしがたい。フィットHVを買ったのは2月だったので、試乗した際にこの点に気付かなかった。燃費は実使用で見ればそう悪い値ではないと思う。

 次の新型フィットハイブリッド今年9月に発売される。
雑誌などの資料によれば、今のフィットの欠点をすべてテコ入れして、トヨタ『アクア』を上回る低燃費を実現するようだ!。これは素晴らしい!!
 電池はリチュウムイオン電池を使用し、新型アコードと同じ。容量は少し少なくなると思うが・・・。
 モータ(発電機)は新型アコードが2台積んでいるが、フィットHVは1台になる。
 エンジンと発電機をクラッチで断・続して、ブレーキング時の回生エネルギーの無駄をなくしている。モータの馬力も大きくして、モータで発進・走行ができる。
 もちろん、課題のエアコンは電動化しているので、信号待ちでエンジンストップしてもエアコンは動作する。
 この新フィットHVがどんな出来映えになっているか、9月が待ち遠しい。

 ホンダは今回の新型アコードを皮切りに、次々とハイブリッド車を出してくるらしい。ホンダが巨人トヨタに一矢を射ることができるかどうか?
 
 新型アコードHVはメイン市場をアメリカに定めて造られているので、サイズはクラウンを上回るほど大きい。カムリをターゲットとして開発されたようだ。
 もし、このHVシステムを1250kg程度のプリウスぐらいの車に搭載すればさらに驚異の燃費が実現できる。そういうモデルも近々出されるだろう。

 もちろん、トヨタも黙っていない。7月にはカローラHVが発売されるらしい。
これは今のトヨタのHVシステムをそのまま搭載される。バッテリーはニッケル水素電池になる。

 その他のメーカも黙って見ているわけではないだろうから、これからHV(ハイブリッド)オンパレードが始まる。ますます低燃費競争が激しくなる。
 低燃費と運転性能をいかに両立するか、メーカの腕の見せ所になる。
車ファンには、たのしい時代がやって来た!!

下の写真2枚は新型アコードハイブリッド

 


6月21日(金)
高齢者自動車運転講習会に参加して

  今年の11月に満70才を迎える。自分はまだまだ若いと思っているが、実年齢は待ってくれない。誕生月の半年前に、大阪府警、交通部運転免許課と言うところから封書が届く。『ああ、来たか!』と言う実感であった。

 さっそく、最寄りの自動車学校である寝屋川自動車学校に電話して、講習会の日を申込みした。最初、思っていた日は、すでに予約で一杯だったので、別の日を選んだ。
 予約日に行って見ると、まず講習料金5800円を徴収されたので、支払を済ませ教室に入った。10時から12時50分まで、約3時間みっちり講習があった。

 まず、30分ほど講師の話があり、運転注意や事故などのビデオを見せられた。その後、反射動作の検査があり、5台の検査器と言うか、簡単な自動車のシミュレータが並んだ部屋に入り、これに座って画面を見ながら、アクセルとブレーキを踏む反応検査に臨んだ。画面に青、黄、赤色の丸が信号機のように時々、現れる。アクセルを踏むと画面が前進するようになっている。この状態で青が画面に現れると、アクセルは踏んだまま、黄色が現れるとアクセルを離す。赤が出ると、ブレーキを踏むという3種の動作を右足で行うもの。これを間違いなく、如何に早く反応して、アクセル、ブレーキ操作ができるかどうかのチェックである。
 
 最初の画面はハンドルを回しても画面は何も変わらない。次の試験は少し複雑になり、ハンドルを切れば画面が動いて道路に障害物が現れるのを避けながら、先ほどの信号機と同様に青、黄、赤色の丸が現れて、アクセルとブレーキ操作をするというもの。3分か5分ぐらいその2種類の検査をする。
 この機械が5台並んでいるので、一日に一回5人しか検査ができない。

 この反応検査が終わった後、目の検査に移る。目の検査は静止視力(通常の視力》検査、動体視力検査、視野角の広さ、視野角内に盲点がないかどうかの検査、一度明るい画面を見て、次に暗い画面に代わり、どのくらいの時間で目が回復するかという検査があった。これはトンネル内に入る時に、直後は何も見えないので危険である。加齢とともに視力の回復に時間がかかるそうで、それを測定する。

 一連の目の検査が終わってから、自動車学校の運転教習用自動車に3人と2人の2組に分かれて、係員が助手席に座り、コースを指示して、コースを回る。
 コース内には信号機があり、一旦停車があり、縁石乗揚げ、S字カーブ、車庫入れなど一般の教習所のコースを一通り廻り、3人が全員入れ替わり運転し終えた後、係員から運転の注意点を教えてもらった。
 一旦停車は全員、止まる操作はしたが、車が完全に止まっていない状態で、発進した人がある。発進時に左右の確認が首を左右に振ってきちっと確認していない人があったなど、さすがによく見ているなと思った。
 特に、一旦停止線で自分は停まったつもりでも、検問の警察官に一旦停車違反を忠告されて、よくもめることがあるらしい。それは減速して止まったつもりでも、見張っている警察官からすれば、車がゆっくり動いていることがあるらしい。だから一旦停止の場所では完全に停止して下さい!と言う忠告があった。
 運転実技、これは試験と言うより、運転に対する注意喚起をするためのもので、時々脱輪したり縁石に乗り上げる人も居るらしいが、そういうトラブルがあっても免許証の取り上げ!と言うようなことはない。
 
 運転実技を終わって、約30分間、講義があった。これは全員で交差点の絵を見ながら、どういう注意をすればいいか?という話し合いであった。
その後、『高齢者講習修了書』をもらって帰った。
 免許の更新は最寄りの警察に、誕生日の一か月前後に行き、更新手続きをすればいい。この際に『高齢者講習修了書』がないと受付してもらえない。
 
 これが済めば、次は75才で再度高齢者講習があるらしい。75才になれば、頭の検査が加わる。簡単な認知試験が付加されると聞いている。

 もう一つ、免許証の自主返納と言う制度ができた。これは免許証がいろんな身元確認用の資料として使われているので、それに代用できる運転経歴証明書の交付を受けることができる。
 
 高齢で運転がおぼつかなくなったと感じた時は早く返納した方がいい。
高速道路を逆走するというような運転をして大事故を起こす人も時々いる。昨日も新聞に載っていた。またアクセルとブレーキを踏み違えるという事故も時々、報道されている。
 高齢化社会が進み、加齢に伴う身体機能の低下を自覚して、より安全な運転に努めたいと改めて感じた。

 最初、講習会、費用の5800円は高いな!、なぜこういう制度が導入されたのか?と疑問を抱いたが、行って見てなるほどこういうチェックや指導は時々必要かなと言う気持ちになった。

寝屋川ドライビングスクール 教習コース

  


5月4日(土)
家電メーカの苦悩の原因を掴んだ!
会社と組合の関係は車の両輪?

  大型連休の後半が始まり、沢山の人が動くので、この休みが終わるまで、ゆっくり家で過ごすことにする。今年のGWは気温が上がらず寒い日が続いている。

 さて、日本の電機メーカ、特に家電メーカの業績は惨憺たる状況で、関西の家電メーカ各社は崩壊状態にある。三洋電機はPanasonicに吸収合併され、Sharpは堺の臨海工業跡地に、液晶と太陽電池の強大な工場を建て、設備投資をして、これからは「まさにSharpの時代」かと思われた。
 しかし、海外に、さらなる伏兵が居た。韓国のSamsungとLG電子、それに台湾メーカ、中国メーカ。今や企業競争は完全にグローバルに展開する時代になった。

 韓国メーカ2社は以前に紹介したとおり、韓国の国内マーケットが小さいので、海外に輸出に頼るしか伸びられない。だから彼らは世界の隅々まで営業活動し、その国の事情や生活にあった商品を造ることに徹してきた。これは技術的に難しい問題ではなく、いかに廉く造るかが課題であった。営業マンは現地化し、徹底して現地の日常生活の場を体験し、情報を本社に送った。その結果が見事に表れた。
 
 松下電器でTechnicsの商品開発をしていた頃、ヨーロッパやアメリカに出張して、大都市を歩くと、大きく目につく看板はSonyか、Panasonicか、Canonなど日本メーカばかりであった。それがリタイヤした後、観光ツアーで外国に行くと、目立つのはSamsungとLG電子の看板ばかりである。今なお、目につくのは、時々、CanonやNikonがある程度で、SonyもPanasonicもどこかに消えてしまった。全くなくなったわけではないと思うが小生の目に留まらない。

 これが実情で、日本メーカの後退を表しているなぁ!とさみしく思う。
なぜ、この10年、いや20年ぐらいで立場が大きく変わってしまったのか?

 いろんな本や、新聞で紹介され、議論されたりしているが、状況分析ばかりで、何が問題だったのかは誰も触れないし、分かっていないようだ。
 『円高、ウォン安で韓国メーカが輸出に有利な状況が続いた』という人が多い。確かに、ドルに対しウォン安は、彼らにとって有難い状況である。しかし、『ああ、そうか』という気持ちに素直になれない。他に『これだ!』という根本の原因があるのではないか?と考えていた。

 このページの副題として会社と組合の関係は車の両輪を上げたが、今まで会社と組合の関係は良好で、そういうふうに言われてきた。これは間違いではない。
 しかし、今の時代を考えると、何かがそぐわない気がする。
ここに、家電メーカの苦悩の要因があることを発見した。

 物不足の時代、造れば売れる時代は、全社員が思想や、力を合わせて仕事に取り組むことで大きな成果につながった。松下電器の社員はどこを切っても『金太郎あめ』だと言われ、それが松下電器の強みや風土であった。
 昭和の時代はまさにその完成域であったような気がする。それが松下電器の成功の要因であった。社員と会社が車の両輪となり、互いに支え合い会社が発展してきた。

 その後、日本や先進国は『もの余り時代』になった。ユーザのニーズや要望が多様化し、個々のニーズに応えることが必要になった。
ユーザはすでに手元に欲しいものを持っているので、新しく買ってもらうには、『いいものを安く』、だけでは販売が伸びなくなった。

 それまでの生産ラインは直線のコンベアに社員が並び、工程の作業を単純化して、同じ作業の繰り返しにより規格大量生産方式で、同じ機種(または数機種)を毎日、毎日、生産し、出荷すればよかった。良い品質な商品を安く大量に造って売ることに徹すればよかった。それが、もの余り時代はそうはゆかなくなった。
 ユーザの好みに合う商品を、欲しいときに、欲しいだけ提供しなければならなくなった。従来の直線ラインでは、ひょっとして売れないモノを大量に作ってしまう危険が生じてきた。そこで、製造現場の大改革が始まった。直線のコンベアが取り外され、屋台方式になり、屋台の中に一人から数名の作業者が入り、そこで商品を完成する。一人の持ち工数や作業内容は各段に増えたが、製造現場はそれを乗り越えてきた。
 この結果、機種切り替えは短時間で切り替えられることが可能になった。

 過去の成功者達は、直線ラインがベストだという方針をなかなか曲げなかった事も事実である。しかし、次第に、切り替えロスという課題が大きくなり、製造現場はトータルの作業工数の低減に取り組んできた。

 自動車の生産は、家電商品と違って、大きさや重さが違うので、屋台方式で生産することは不可能である。彼らの解は、混合生産という方法で解決した。一つのラインでいくつかの機種(モデル)を混合して流すやり方である。手元に流れてくる機種にあう部品が手元に届くような部品の供給システムが必要になるが、これもいろんな工夫で解決した。

 自動車は機種以外に、色の違いやグレードの違いがある。トヨタ自動車は看板方式という方法で、流す機種や色やグレードに応じた看板(バーコード)をつけ、それに応じた部材を生産ラインに供給するという生産方式を確立した。

 こういう製造現場の改善や、作業の複雑化による改善に対応するには、作業者の協力が要る。ここに会社と組合は車の両輪という表現がぴったりはまる。

 電機業界は『ユニオンショップ制』という労働組合制度で、企業に一つの組合しか認めない。社員は全員組合員である。
完全月給社員(完月)は非組合員で、これは立場が会社側の管理者である。
そして、家電各社の場合は『電機労連』に属する。
電機労連のあり方は別とすれば、ここまでは特に問題もないと思われる。

 問題は、事業と待遇の話しになる。
経営が破たんするということは、販売(収入)より経費(支出)が上回ることだから、収支が赤字ということになる。
改善策は販売をいかに伸ばすか、または販売に応じた支出にするかしか方法はない。
販売を伸ばすのは攻めの経営で、経費を押させるのは守りの経営である。企業の経営は、これをうまく管理することに尽きる。そう考えれば、経営はしごく簡単な事だ。

 各事業部ごとに、生産・販売している商品が違う。
ある商品は、数的にはあまり多くはないが、十分な利益を確保できるもの、
ある商品は、中国や台湾や韓国メーカとバッティングする商品で、値段が勝負である、
ある商品は、独自の特徴を持ち、他社にないものや、他社と違ったものづくりで利益を確保している、そういう様々な事業のスタイルが一つの家電メーカ内に共存する。

 競争相手が国内だけの時代は、今までの電機労連式の組合と会社の関係でやってこれた。しかし、グローバル化し、相手が外国企業になると、労働者の賃金が極端に違う。また、使う部品も安い賃金で造られるため、部品コストも安い。
 そういう環境の元で造られる海外商品と、国内で生産する商品では、コスト的には合わなくなった。日本の各メーカは必死に努力したが、今や“Give up”となった。
その結果、地方に展開した工場は軒並み閉鎖に追い込まれた。そして企業は生き残りをかけて、逆に海外に進出し、海外生産した商品を持ち帰るようになった。
企業自体の生き残り策はそれでいいのかもしれない。
 しかし、労働者は工場が閉鎖すれば、仕事が無くなる。仕事が無くなれば、退職するか、他の事業場に移動するしかない。移動しても自分に合う仕事はそう簡単に見つからない。だから、会社は仕事がないことを前面に出して、退職を迫る。
そういう姿が現状だ!ここまでは、現状の話であり、特に何ということはない。

 もし、『事業部や工場の実力(収支)に見合う給料にするとしたらどうだろうか?』

 家電メーカはいろんな商品を生産・販売している。事業部によって、儲けているところと、赤字の事業部がある。事業部ごとに、完全に独立採算制で、儲けている事業部はそれなりの給料を出すが、儲けが少ない、赤字の事業部は給料がそれ相応の分しか出ないという制度で運用すれば、地方の工場は安い賃金になるが、地方では生活することができる。そうすると、工場は経営が成り立ち、労働者の解雇もしなくて良い。
どこまで賃金が下がるかはその工場や事業部の実力であり、努力次第とすればいい。いくらやっても、成り立たないなら、その事業は閉鎖するしかない。

 余談になるが、日本電産というモータの会社は海外生産をしているが、日本でも生産している。モータは儲けがない、枯れた商品だというのが、定評であった。そのモータで元気に経営している。いや、さらに伸びている。
これは永守社長の優れた感覚と尋常でない努力で経営しているからだ。

Panasonicの社員は、組合員はどこの事業場であれ一律、賃金になっている。賃金の査定基準が確立していて、正しく評価がされているはずである。問題は事業場の経営に見合った賃金体系に焼き直さなければならない。これが一律を基本とすれば、売上に見合ったコストという点で無理がある。その結果、事業場は次々と経営破たんを繰り返すことになる。その結果、国内に残る工場や事業場はなくなってゆく。

 賃金は下がるが、何とか踏みとどまって仕事を続ける!同じPanasonicの社員でも勤める事業場で大きく賃金が異なる、それを公然と認めることが必要だ!

 そうすれば、今は、廉い賃金であっても、事業場内の全員が真剣になって知恵を出し合い、頑張れば、黒字化し、賃金が上がるという仕組みづくりをしないといけない。

 本社が事業場の経営に口出しをせず、事業場長は完全な独立会社の社長と同じ役割で経営をすることが生き残りをかけた新しい事業部制でなければならないと思う。
名前だけ、事業部制に戻しても意味がない。これが完全自主独立経営の姿である。
事業場長は社長そのものであり、経営の全責任を負う。赤字なら自らの給料は返上しなければならない。
 事業場長と、そこに働く社員が一丸となって、収益の確保に努力しなければ生き残れない。ダメなら解散するしかないのである。
 今は、中には設けている事業部もあり、その逆に大赤字の事業部もある。しかし、全社で見れば、赤字である場合でも、一定の賃金が支払われている。だから人件費を下げるために、早期退職などを迫る。そういうやり方ではなく、その事業場の経営状況に応じた賃金体系にすることが大切だ。
そうすれば、そのに働く社員は本気にならざるを得ない。真剣になって働く。事業場長は全責任を持っているので、命を懸けて取り組む。

これが幸之助創業者が言われた「自主責任経営」の姿のはずである。

人間は、問題を正しくフィードバックしてやれば、すごい力を発揮する。そうでなければぬるま湯に浸かった状態になる。

製造ラインが、生産の究極の姿として確立した直線生産ラインを壊して、屋台方式に
切り替えたように、組合と会社の関係を企業経営の実力にあった賃金形態に変えられるような柔軟性を取り入れることが大切だ。


3月24日(日)
『発送電分離法案』は後退するのか?

自民党は電力業界と戦えるのか、擁護するのか?

  日本は電気を産み出す(発電)会社と、電気を届ける(送配電)会社が一体になっている。しかも、日本を9つの地域ブロックに分けている。
北から北海道、東北、東京、中部、北陸、関西、中国、四国、九州、の9電力会社で、これに沖縄を加えると10電力会社となる。これらの電力会社を法律上は、『一般電気事業者』と呼ぶ。
 現状では、いい面と悪い面がある。
いい面は、地域の電力の需要量に応じて発電、送電、配電するという電気事業者からすれば事業がやりやすく、経営が安定する。言い換えると独占企業の形態である。地域に競争相手がいないので、好き勝手にできる。それを電気事業法で、電気使用料金や、事業上規制をかけて取り締まっている。

しかし、競争がないところに発展や進歩がない。また、規制官庁や、政治家や、政党や、地域との癒着もはびこることがよくある。

欧米では1990年代に、『電力の自由化』により発送電が分離された。これにより、電気消費者(需要家)は安い電力会社から電気を買うことができるようになった。
電気事業者(発電会社)も発電コストをいかに下げるかの努力をすることになる。
そうしないと、新しい競争相手の発電会社に負けることになる。結果として、電気料金が下がることにつながる。
これに対して反対論者は、電力の安定供給のために、自由化は良くないという。自由化によって、停電が頻発することになるという話を持ち出す。確かに、日本は大変電気の安定供給が進んでいる国だと思う。しかし、福島原発事故以来、その神話が崩壊してしまった。
。今までは発電部門と送電部門が一緒くたにコスト計算されているので、外部からは分からない状態になっていた。これを分離すれば、経営実態がよく分かることになる。
 原子力発電は、燃料費が安いと言われるが、これから将来も安いかと言うと、必ずしもそうは言われない。世界中が原発建設に向かっている中で、ウラン燃料は今後、高騰することが予想されている。
 さらに、発電後の放射性廃棄物処理、その後の保管の方法などは各国でまちまちで、数万年以上という保管期間、その管理を考えるとどれだけのコストがかかる計り知れない。原発の発電コストは、放射性廃棄物の処理や管理コストを十分算入していない。

 楽観的な話として、原子力発電した燃えカスの燃料を再処理して高速増殖炉という特殊な原子炉で再度燃やすという核燃料サイクルの話がある、いやあったという方が正しいかもしれない。高速増殖炉『もんじゅ』という名前を聞いたことがあるはず。
 一般的な原子炉は軽水炉という方式を使っている。軽水炉は原子炉から熱エネルギーを取り出すため(言い方を変えれば燃料棒を冷却するため)に水(普通の水)を使っている。
 水は蒸気になることで蒸発熱を燃料棒から奪い、燃料は一定の温度に保たれて、その蒸気で蒸気タービンを回して発電する。水のもう一つの働きは、燃料棒のウランから出る放射線の速度を減速する働きがある。だから使わない燃料棒を保管する場所として水を浸したプールの中に燃料棒を入れている。

 『もんじゅ』は水を冷却材と減速材に使った原子炉ではない。水の代わりに、金属ナトリュウムを使う。金属ナトリュウムは93度で溶け始め、833度で沸騰する。金属ナトリュウムは水と反応すると酸化して水素を発生する大変危険な物質である。
 ナトリュウムを使うことで、軽水炉で放射性廃棄物として生まれるウラン238という燃えカスを燃やすことができ、放射性廃棄物を少なくできる。
 かすが生まれないということで、核燃料サイクル(プルサーマル)と呼び、脚光を浴びたのであるが、技術的に難しくて世界中でも成功した国はない。
 これが『もんじゅ』である。『文殊の知恵』という言葉がるが、誰かが核燃料廃棄物を出さないで、エネルギーだけ取り出せるすごい知恵だと言うことで『もんじゅ』と命名したのだと思われる。世の中にそういううまい話はあるのだろうか?
失敗すると、手におえない痛手を被ることになる。

 話しを発送電分離に戻す。
 朝日新聞によれば、自民党部会で、それまで「電力会社から送配電部門を切り離す「発送電分離」などの電力改革を骨抜きにする動きが出てきたと報じられている。背景は電力業界の抵抗があり、自民党政権で改革が巻き戻されつつある。となっている。
 政府が3月上旬にまとめた改革案では、発送電分離を「18年〜20年をめどに実施する」として、その関連法案を「15年通常国会に提出する」とはっきり書いた。
 だが、自民党の経済産業部会などの合同部会で「原発などの将来の電源構成が分からない内は決められない」との反対が相次いだ。
 自民党は週内に政調審議会と総務会を開いて改めて議論する予定で、さらに表現が変わる可能性もある。
 これらを経て、月内にも閣議決定される見通しだ。背景には業績が悪化している
電力業界への「配慮」がある。電力システムに関する小委員会の船田元委員長は「電力会社の体力が弱っている時に分離させるのはさらに弱めることにならないか、という議論があった」と明かす。

 電力の発送電分離は電力システムの自由化という改革であり、生産者の立場から消費者主導の立場に電力に自由化を図るという改革である。当然、既存の電力会社はこの改革で痛みを伴うはずだ。

 しかし、改革とはそういうものであり、それを乗り越えることで、さらなる発展ができる。
 国鉄ーJR、電電公社ーNTT、など大反対があったが、今は各社隆々と経営している。
電力だけが特別である理由はない。

3月20日(水)
「仮免原発」なぜ容認

大きく動き出した再稼働の流れ

 アベノミクスがとった円安誘導策により、株価は連日値上がりしている。自民党政権に対する支持率も上昇の一途となっている。
このままでは夏の参議員選挙で参院は自民党で埋め尽くされるかもしれない。
景気が良くなり、世の中に活気が戻ることは大歓迎である。

しかし、それはそれとして、いろんな課題が山積している。
その一つが東日本大震災の復興と、津波による福島原発事故の終息である。
震災復興に名を借りた巨額の公共投資が目白押しの状態になっている。もう一つが福島原発事故後の復旧である。

 一昨日、原発の冷却システムが停止して、冷却不能になったというニュースが流れた。その発表がまたしても遅れたことでジャーナリズムが騒いでいる。
電源盤のトラブルのようだが、こういう通常(平時)のトラブルで右往左往することはない。原因はネズミ一匹のようだ。いつものように対応すれば収まる。

 原発で一番問題になるのは、非常時に起きた事故対応が非常事態の中で対応できるかどうかである。
『非常時に何が起きるか』を完璧に想定して、その対応ができないと今回の事故の二の舞になる。そういうことがはたしてできるのであろうか?

3月20日、朝日新聞の3ページに「仮免原発なぜ容認」という記事が載っている。
大飯原発 新基準の施行後も止めずとなっている。

そして、原子力規制委員の田中俊一委員長の発言の変化が記されている。
〈1月23日の発言〉
大飯だけ例外扱いはできない。何もしないで9月まで運転することはあり得ない。

〈3月19日の発言〉
 制度をうまく動かすためには、新しい基準が出来たらすぐ停止ではなくて、次の定期検査の時点で対応できていることを確認する。

大きく発言内容が変化している。要は大飯は稼働し続けることを認める内容だ。

7月に施行される原発の新安全基準について、大飯原発は9月の定期検査以降とした。夏場の電力不足に対応するために大飯原発を止めないで乗り切りたいという関西電力の圧力がかかったものと思われる。

 現状のままで、大飯原発付近で大地震が起きても安全であれば結構だと思う。
活断層が近くにあり、良く調べると原発の構内を分断するように断層が走っているとまで言われている。そういう物騒な敷地に原子炉が造られている。

 なぜ、そんな危険な場所に原発を設置したのか?
これは原発を設置するには、場所を探して、地元の了解をとる作業が必要であるが、地元の賛同を得られる段階まで来ると、もう後戻りができないほどいろんな準備や資金の投入をしている。
だから設置場所が決まってから、活断層が見つかっても、何とかそれが危険な活断層ではないという後付けの理屈で言い逃れようとする。

 これを乗り切るためには電力会社は支持政党や地元自治体や関係機関に多額の寄付や支援金やいろんな支援策を弄して、口をふさぐ努力をする。
ある意味で、それは(喜ばれないことや危険な何かを推進するためには)当然の
振る舞いだと思う。
 しかし、こと、原子力発電所の建設や、運転に関してはそういう圧力や、口ふさぎがあってはならない。

 東日本大震災で、我々は自然の力の大きさと、人の力のはかなさや小ささを思い知ったはずである。この教訓を震災後、丸2年でもう忘れようとしている。

『10m以上の津波は来ない」という勝手な想定により、原発を設置し、20mの津波に襲われた福島原発は無残に破壊された。

高いところに原発を建設すれば津波の被害は全く心配いらない。
しかし、火力発電所も原発もすべて海岸線に建設している。
この理由は、原子力発電所や火力発電所は復水器という大きな器(部屋)に大量の水を導入して過熱蒸気を冷やすことで、高い圧力から急激に真空にすることで、タービンに回転力を生み出す。
大量の水は海水を使う。すなわち海に近い方がいい。そして海面からできるだけ
高くない場所の方が海水をくみ上げるのに要する電気が要らない。
要は、発電所の所内で消費する電力を下げること。これが発電所の発電効率の向上になる。発電効率を高めるために、海面にできるだけ近い状態が理想なのである。

 一方で津波に対する備えとして、ある高さが必要であり、福島原発はそれを10mとしたのである。なぜ10mとしたのか?

 東京電力の言い分は過去、歴史を調べると、10mを超える津波はこなかったという史実を掲げて建設許可を取った。
 しかし、人類の歴史に載っていないことは起きないという保証は全くない。人類の歴史は地球の歴史からすれば、ほんの一瞬だ。
 確率的に少ないかもしれないが、有史以来・・・という出来事は、いつ起きるか分からないが必ず起きる。我々の想定を上回ることは起きるのである。

 想定外のことが起きても、対応できることが求められる。
 これが原子力を利用する上で一番重要なことであり、原子力発電所の安全の原点だと思う。いかなる想定外の出来事が起きても、設備が破壊されても、安全に終息できる対策がとられることが必須である。それが経済的に合うかどうかは別問題で、もしそれが出来なのなら原発は稼働させてはならない。

 これが今回の福島原発事故で学んだことだ。
完璧に対応できなければ、原発は建設し動かしてはならない。

 しかし、世界一厳しい安全基準を作り、それをクリアすれば再稼働させるという動きが始まっている。
世界一厳しいから安全だというのはナンセンスである。
なぜなら、日本は世界一、地震が多い国だからである。
 海外旅行して地震にあった、地震情報など聞いたことはない。日本にいれば毎日のようにテレビで地震情報が流れる。
 これは日本列島が地殻的に若々しくて変動しているからである。3つプレートが日本近海に存在し、それが常に動いている。地震エネルギーが常に蓄積されている。加えて無数の活断層が存在する。
 
 こういう国は世界中に日本しかない。アメリカ大陸や北欧等は100万年以上も地殻変動が見られないという地殻的に古い地盤が存在する。
 それに比べて日本の地殻は1万年、10万年という氷河期最後から生まれた地層になっている。地殻的には若い地盤なのである。
 そういう不安定な地盤の上に、日本の原子力発電所は建設しているのである。
 世界一不安定な地盤の上に、いくら世界一厳しい安全基準の原子力発電所を建設しても、それは世界一安全とは言えない。また、世界の安全基準を満たしたから、安全だともいえない。

 しかし、自民党は原発の再稼働に向けて大きく舵を切り始めている
自然エネルギーの開発、推進などの声は、もうあまり聞かれなくなった。
発送電分離の掛け声も小さくなってきた。その内に消えてしまい、従来通りの9電力会社が初送電を担当するのだろう。

民主党は原発ゼロを掲げて、『原発賛成か、反対か』で参院選挙を戦えばいい。
これを徹底すれば、夏の参院選挙の大きな対立軸になる。

 関西の水がめ、琵琶湖が放射能で汚染されたら関西は完全に崩壊する。
大飯原発や福井県にある多くの原発の一つが事故を起こせば、連鎖反応して、次々と爆発や放射能漏れになれば、琵琶湖汚染は確実に起きる。数百年、数千年と琵琶湖の水が使えなくなれば、もう取り返しがつかなくなる。
そういう危険性を正しく見極めなければならない時だ!

3月19日(火)
『死の淵を見た男』を読んで

PHP研究所
門田隆将 著
定価(本体1700円+税)

 東日本大震災が起きて、丸2年が経過した。この震災の様子は克明に記憶として
残っている。当日は伊勢湾に浮かぶ日間賀島に渡り、フグ料理を食べに行こうと
知多半島を南北に走る南知多道路を走っていた。その最中にカーラジオに緊急地震警報のけたたましい音が鳴り響いた。すぐに減速し、道路の片側に寄せて、カーラジオを聞いたところ、東北地方が震源ということだった。続いてマグニチュードは8.・・という緊迫したアナウンスの声が聞こえた。

 車を入れ替えたので、新車のならし運転を兼ねての旅行だった。
この車には地デジテレビが付いているので、テレビを見ながら再び走り出した。
南知多自動車道の南端、豊丘ICで降り、一般道路を走り、師崎港フェリーターミナルに着いた。その頃、津波情報が盛んに放送され始めた。駐車場が海岸の数mの距離にあり、海抜は2m程しかない。仕方なく、そこに駐車して、船に乗り込んで日間賀島に渡った。

 ホテルに着いて、テレビをつけると大津波が襲い、家がぷかぷか浮き、あらゆるものが流されている映像を伝えている。
 ふと、自分の車を海のすぐそばに駐車したことを思い出し、大丈夫かと心配したことを覚えている。幸い、伊勢湾に目立った海面上昇がなくて事なきを得た。
 フグ料理を堪能したが、その味わいより地震と津波のインパクトが大きかった。
 無事に帰宅後、福島原発が大変深刻な状況に陥り、燃料棒の温度上昇が続いているというニュースを見た。

 その後、原発事故についてはいろんな本を読み漁ったが、今回の本は現場に居合わせた人々の生の声を聞き取り、その取材を元に記事にしているところに、現場の切迫した状況が手に取るように分かる。
 著者が考えて書いたものではなく、ドキュメンタリーであり、それも安易なドキュメンタリードラマとは言い難い強烈なものを訴えてくる。

 原発再稼働が早くも動き出す気配を見せ始めた。
我々は本当に福島原発事故原因を確定し、再発防止に生かせているのか、またそもそも原子力発電は安全なのか、について良く考えなければならない。

 日本は工業立国であり、それはエネルギー大量消費国を意味する。
原発停止で電力不足が叫ばれ、原発の再稼働を当然のように口にする人が新政権で増えてきた。
 アベノミクスが動きだし、景気の高揚感が少しずつ感じられるようになり、自民党政権は順調に動いているように見える。日本が本当にいい方向に進んでいるとすれば結構なことだ。
 しかし、だからと言って、福島原発事故の原因と再発防止をどう実現するかは別問題である。

 原発、原子力は他のエネルギーとは全く性格が違うことをよく理解しなければならない。ウラン燃料が原子核分裂する際に出す膨大な熱を利用して、水を沸騰させる。この蒸気をタービンに送り、回転力に変えて、発電機を回す。蒸気がタービンを回し、その軸が発電機につながっている、この仕組みは火力発電と全く同じである。熱を電気エネルギーに変えるにはこの方法が一番理にかなっている。
 他に、半導体素子などを使い、熱エネルギーを電気に変換する素子があるが、大電力を発電するような大規模な装置は造れない。

 問題は『蒸気を生み出す熱を何に求めるか』である。
石炭、重油、天然ガスなどの自然エネルギーに頼るか、ウランの原子崩壊熱に頼るかである。

 『熱』という点では全く同じであるが、自然エネルギーはすべて炭素と水素の結合した炭化水素分子が、燃焼することで空気中の酸素と結合して炭酸ガスと水になる。その際の燃焼による熱を利用している。これは人類が地上に発生してから、火を使う、火を利用することを覚えた数万年?以上前からやってきたこととである。

 燃えるということは、『燃えるものがあること』、『酸素があること』、『燃えだす温度以上に保たれること』、この3つの条件が揃って初めて物は燃える。だから逆に3つの条件の一つを取り除けば火は消える。

 火力発電所が仮に爆発しても、3つの条件の一つが無くなれば自然に鎮火する。
原子力はそうはいかない。ウラン燃料棒は自ら放射線を出し続けている。この放射線が燃料棒の中の他のウラン原子に当たれば原子核分裂をする。一個の原子が他の原子に当たり、それにより当たった原子が核分裂することで、さらに多くの放射線を出すと、ネズミ算式に放射線は増えてゆく。これは原子核分裂がドンドン進行することを意味する。核分裂が起きると、質量(重さ)がわずかに減る。この質量欠損が核分裂の熱として発生する。
以前に書いたとおり、E=(質量欠損分)×光束の2乗
という膨大な熱を出す。

 ウラン燃料があるだけで、燃料棒自体が発熱する。燃料棒を寄せ集めると、原子核分裂反応が持続され巨大な熱となる。この状態を『臨界状態』という。
臨界状態になっていなくても、常時熱を出し続けているので、燃料棒は水をはったプールに浸しておかなければならない。この水は『冷やす作用』と、水の持つ大きな特徴である『放射線を遮る作用』がある。この水の持つ2つの作用をうまく使って燃料棒を貯蔵している。発電する際は燃料棒を格納容器に移し替える。
少し、話が横に逸れたので元に戻す。

 要は、ウラン燃料棒は水に浸して冷やし続けることが必要になる。
発電中の炉心にある場合は、まず緊急停止する。臨界状態を止める。その後の原子核の崩壊熱を冷やし続ける、次第に発熱量が下がってゆく。しかし、冷やし続ける作業は燃料棒がある以上、続けなければならない。

 だから、冷却装置が故障したり、水が漏れて無くなればウラン燃料棒がむき出しになり、水が遮っていた放射線が多くなり自己発熱でドンドン温度が上昇して、ついには燃料棒が溶けるメルトダウンに至る。

こうなれば大量の放射性物質がまき散らされて人が近づけなくなる。
もし、炉心が爆発していたら、4号機の燃料棒貯蔵タンクに地震でヒビや穴が開いて水が漏れてしまっていたら、何も覆うものがない状態で、メルトダウンが起きる。そういう状態になっていたら、近くの作業者はすべて死に至っている。また福島第二発電所も放射能汚染され作業員は退避しなければならない。そうなると原子炉を管理できなくなり、冷却が止まる。それは福島第一原発と同じ運命になる。
大量の放射線が次々と近くの発電所で将棋倒しのように進行し、東北地方はもちろん関東地方、首都圏さえ住まれなくなる可能性があった。
日本が3つに分断され、何とかすめる地域は北海道、関西、九州・四国だけになる
瀬戸際まで行ったのである。そうなれば日本国はもう国の体をなさなくなっただろう。それを何とか踏み留めたのはやはり現場で作業に当たった人たちである。

 そういう危機が福島原発で起きていた。
詳しいことは本書を読んで頂きたいし、一読の価値は十分ある。

以下、門田さんの『まえがき』と『あとがき』の一部をご紹介する。

まえがき
 明日の見えない太平洋戦争末期、飛行技術の習得や特攻訓練の厳しい現場となった跡地に立つ原子力発電所で起きた悲劇、絶望と暗闇の中で原子炉建屋のすぐ隣の中央制御室にとどまった男たちの戦いはいつ果てるともなく続いた。
自らの運命が危うい中、なぜ彼らは踏みとどまり、そして暗闇に向かって何度も突入したのか。彼らは死の淵に立っていた。
 それは自らの死の淵であったと同時に、国家と郷土福島の死の淵でもあった。
そんな事態に直面したとき、人は何を思い、どう行動するのか?
力及ばず大きな放射能被害が生じた。しかし、土壇場で、原子炉格納容器爆発による放射能飛散という最悪の事態は回避された。

本書は原発の是非を問うものではない。
あえて、原発に賛成か、反対かといった是非論に踏み込まない。なぜなら、原発に賛成か、反対かのイデオロギーからの視点では、彼らが死を賭して闘った人としての意味が逆に見えにくくなるからである。
本書は吉田昌郎という男のもと、最後まであきらめることなく、使命感と郷土愛に貫かれて壮絶な闘いを展開した人たちの物語である、


終わりに
取材を続けながら、この原発事故が様々な面で多くの教訓を後世に与えたことを改めて痛感した。それは単に原子力の世界だけにとどまらず、様々な分野に共通する警句であると思う。

現場で奮闘した多くの人々の闘いに敬意を表すると共に、わたしはやはりこれを防ぎ得なかった日本の政治家、官庁、東京電力・・・等々の原子力エネルギーを管理、推進する人々の「慢心」に思いを致さざるを得なかった。

この事故を防ぐ最後のチャンスは、実は2度あったと思う。
その最大のものは、9.11テロの2001年9月11日である。改めて言うまでもないが、安全を期して二重、三重に防御を張り巡らしている原発の敵は「自然災害」と「テロ」である。
今回の福島第一原発の事故の最大の要因となった海面から10メートルという高さに対する過信は、その中の自然災害に対するものだ。
「まさか10メートルを超える津波は押し寄せるわけがない」その思い込みには、過去千年にわたって、福島原発の立つ浜通りを「そんな大津波が襲ったことがない」という自然に対する「侮り(あなどり)」言い換えれば、「甘え」が根底にある。
しかし、自然災害が過去の災害の「範囲内」に終わるという保証は全くない。
それは人間の勝手な解釈、思い込みにすぎない。
これは人間の自然に対する驕りともいえるだろう。

この驕りに警鐘を鳴らしたのが、あのオサマ・ビン・ラディンによる9.11テロだったと思う。ビン・ラディンは自然災害とは全く関係がない。彼が行ったのはテロである。
予想を超えた規模のテロは、原発に対する最も大きな脅威であることを人々に知らしめたのである。

1992年、原子力安全委員会は『30分以上の長時間の全電源喪失について、考慮する必要はない』という報告書をまとめ、安全指針の改定を見送っていたことが20年後の2012年に明らかになった。
「原子力安全を確保できるかどうかは結局のところ、人だと痛感している」これは原子力安全委員会の班目委員長が語った言葉で、この大惨事の本質を表してるのではないだろうか。

そして、現場の人間たちの文字通り、死力を振り絞った闘いによって、吉田所長が語った「チェルノブイリ×10」という最悪の事態はぎりぎりで回避された。
しかし、福島県を中心に回復には気の遠くなるような年月が必要な被害がもたらされ、今も多くの被災者が苦しんでいる。

今回の不幸な原発の事故は、はからずも現代の日本人も、かつての日本人と同様の使命感と責任感を持ち、命を賭けてでも毅然と物事に対処してゆくことを教えてくれた。

3月12日(火)
『パナソニック・ショック』を読んで


文芸春秋刊
立石泰則
定価(本体1300円+税)

  あっという間に、春、3月になった。
すでに梅が満開になり、緋寒桜が濃い紅色の花を下向けに咲き始めている。
今日は奈良、東大寺の二月堂の修二会(しゅにえ)で、「寒さもお水取りまで」と言われているように、これから気温がぐんぐん上がると共に心も弾む季節です。

 さて、主題の『パナソニック・ショック』というショッキングな本が出ました。
 著者は以前、一度、小生が枚方の社員研修所で技術社員研修を担当していた時に、講師として招いたことがある立石泰則氏で、ソニーやパナソニックに大変興味を持ち、たくさんの著書を出している方です。
 パナソニックを礼賛する事も、アンチパナソニックでもない方ですが、どちらかというと自分の主張をはっきり持った上で、パナソニックやソニーを眺めて本を書いてきた人です。
 
 そういう方ですので、会社が順調な時は賛同した表現になりますが、現状のような体たらくなソニーやシャープやパナソニックに対しては相当厳しい表現になっています。
 そのことを立石氏自らも分かっているようで、以前、研修の講師にお招きした際彼が小生に言った言葉は、『私のような物書きを講師に呼んで、あなたは会社から睨まれませんか、迷惑がかかりませんか』という気遣いがあった。
 その時、小生は彼に『外部の方の率直な見方や、いろんな意見を言ってもらって、それをどう自分に生かすかが研修ですから大丈夫です、心置きなく感じた点を指摘し、お話下さい』と申し上げた。
 講師として遠慮したのか、もっと激しい内容の話を期待したのですが、、比較的穏やかな内容だったことを記憶している。

 さて、『パナソニック・ショック』という本はどういう内容なのか?
表紙のカバー(横紐)には、『元凶はなんだ?』とショッキングな表現がある。
表紙の裏には、二期連続で7千億円もの赤字を計上した「パナソニック・ショック」。日本的経営の象徴であり、日本を代表するメーカが凋落してしまったのはなぜなのか。それは創業者。松下幸之助に発する根源的問題と、度重なる経営者の失策、そして技術の流れを大きく見誤った戦略ミスにある。
20年以上にわたり取材を続けた著者による渾身のレポートである・・・

また、裏面には、松下電器が「どこからきたのか」(創業の精神)を忘れてしまい、「どこへ向かうべきか」を見誤った結果が、現在の姿をもたらしたものだと考えている。そのような松下の姿を、創業者・松下幸之助はいったいどのような思いで見ているのだろうか・・・私の素朴な疑問に私自身が挑戦したのが本書である。
となっている。

第一章:私と松下幸之助
第二章:幸之助と松下電器
第三章:中興の祖、山下俊彦
第四章:戦略的な経営
第五章:創業者なき経営
第六章:破壊の時代
第七章:パナソニック再建のために

という構成になっている。
 第一章から第五章あたりまでは、以前からの情報や資料で濃密に書かれていて、小生の知る松下電器と良く合致した内容になっている。
 第六章以降は内容に少々違和感を感じる。

 それは、世の中の大きな変化に対して、家電メーカとして十分対応ができなかったという点では一致するが、著者の論理展開は経営スタンスに終始している。
 論点は間違いはないが、なぜそういうことになったのか、今までのやり方でなぜだめになったのかに触れられていない。
 松下がダメになった、ソニーもシャープも負け犬になった、その根源的問題はどこにあったのか?について触れられていない。

 著者の論理展開は、幸之助の生い立ちがかれの人材観や仕事観を形成し、幸之助が造り上げた会社=家族の松下電器をうまく時代の流れに合うように変化させることに失敗したというような表現になっている。
 それは間違いではないが、今までの松下電器は会社=家族という日本の会社の独特の経営スタンスともいえる。言って見れば『和の精神』である。そういう経営がなぜ、脆くも崩れ去ったのかについてもっと突っ込んだ表現が欲しいと思う。

 小生はその課題に対しては大きく三つの要因や潮流を考えている。
 一つは、売り手市場から買い手市場への市場の変化、即ち、もの不足状態からもの余り状態への変化である。作れば売れる時代、いいものを廉く造ればいくらでも売れる時代から、お客の好むものしか売れない時代、廉いだけでは売れない時代、お客様やユーザが主体になった時代に代わったこと。
 
 二つ目は、ちょうどその頃に、アナログ商品からデジタル商品に変わったこと。これは今まで何回となく書き綴ってきたが、半導体のムーアの法則により、ICの集積度が飛躍的に高まり、倍々ゲームで進化することで、今まで不可能な機能や、超高性能なものや、使い勝手の良いものが、安い値段で造れるようになったことで、爆発的に商品が売れるようになった。
 
 そして三つ目は、グルーバル化とボーダレス化により、世界各国に商品が行き交う時代になった。ロシアの崩壊、東西ドイツの統一、中国の経済開放政策、そしてBRICSの台頭という地球規模の急激な貿易の開放と拡大が上げられる。

この三つの要因がちょうど時を同じくして生じたことである。

しかし、経営陣はその変化を正しく読み切れなかったことに要因がある。

 何事も、変化に対応しようとすれば、今までやってきた経験や実績などが痣になり、新しい取り組みを阻害するというのが人の常である。
 新しい取り組みは今までやったことがないので、正しいか間違っているかの評価の方法もない。やってみて初めて分かることばかりである。
 経営者はそういう立場に置かれると、創業者なら思い切り決められるかもしれないが、そうでない経営者は会社の大事を一番に考えることも頷ける。
幸之助なら、『やってみなはれ!』と言えたかもしれない。

 そういう意味で、シャープも、ソニーも、松下電器も、創業者が居なくなって、先の三つの大きな波を被った時に舵とりを誤った。
 この日本の各社と比較して、サムスンやLG電子は創業者が健在で、ガンガン引っ張るからあっという間に大きな差がついてしまった。

 山下さんを中興の祖として評価している。これは小生も同感できる。
その後の谷井社長、森下社長時代に本当はデジタルが大きく成長する過程にあった。この時に正しく手が打てていれば、松下電器は一流会社として世界に伸びていたはずである。 二人の社長から、それらしい言葉が発せられた。
 森下社長は、『ユビキタスネットワークの時代が来る!』と言われた。しかし、それは言葉として言われたことであり、自分もその姿を理解せず、具体的な会社の行動に移せなかった。
 ちょうど、バブル期であり、松下銀行の資金運営で十分儲かった時でもあったので、世の中の3つの大きな流れに気付いていたとしても、しっかりとした手を打てていなかった。それが行きづまり、中村改革につながる。
 中村改革は、『経営理念以外はすべて破壊する』という強烈なメッセージを社内に発した。ここで言われた『経営理念』は言葉としての経営理念の意味であったと思う。言い換えると、破壊しやすいように曲解した理念であり、、真の松下電器の経営理念を示したものではないと感じた。言葉上の松下電器の経営理念があり、その意味するところと、そこから考えや行動につながる広がりが経営理念の本当の意味合いであるはずである。しかし、中村改革は言葉そのもの以外はすべて破壊すると言ってのけたのである。
 この辺から松下創業者の根源的な経営理念、経営スタンスが大きく変わった。

そして現状につながっている。

 『経営理念の口頭伝達は容易いが、経営理念の引き継ぎは難しい!』 と言われている。
 今もやっているかどうかは分からないが、現役時代には松下電器のすべての職場で朝会単位で、経営理念(綱領、信条)と、遵奉すべき7精神の唱和を全員で大きな声で行ってきた。これは経営理念の口頭伝達の場に過ぎない。
この経営理念をどのように社員の心に深く植え付け、行動の柱としてしっかり定着させるかは別問題である。

 松下電器は、今や創業者が思考した会社から変わってしまったのか?
それなら、創業者が言われていたように、『経営理念を守らない会社になれば、松下電器は存在意義がない』ということである。
 『世界文化の進展に寄与する』という崇高な理念をもう一度、良くかみしめる必要がある。



2月24日(日)
学習塾の今後は?

 星田に住んで、あっという間に40数年になる。当時は大阪府北河内郡だった。そして今、交野市となり、人口は7.7万人になった。交野市は財政的にも厳しい状態で、いろんな面で枚方市のお世話になってきた。消防や警察はおんぶにだっこでお願いしてきた感がある。
その交野市に新たに大阪府警交野警察署が開設され、枚方警察署から独立し、少しは一人前の市になったような感じがする。これで次回の運転免許証更新は市内の交野警察署で済ませることができる。

 この数年、夕方になるとマイクロバスが行き交うことが多くなった。朝は幼稚園のバス、夕方は学習塾のバスだ。それもいろんな学習塾の名前が見える。
特に目につくのは、類塾と馬渕教室のバスである。それ以外にも数か所のバスが走って、中学生だと思う塾生をピックアップして走り去る。
 そういえば、通勤帰りにJR星田駅から歩いて帰ることがある。数ヶ月前から駅から2、3分歩いたところを整地していた。更地になった跡に何が建つのかなと思っていたところ、3階建ての重量鉄骨が組み上がった。マンションにしては建て方が違うな?と思っていたところ、出来上がったのは類塾のビルだった。
 
 新築の類塾 星田校
 立派な建物なので、ケイタイのカメラでパチリと撮った。カメラを向けていると、すぐ受付の女性が玄関から飛び出してきた。『何か御用ですか?』という感じだ。多分、塾の申込みの下見に来たのか?と思ったのだろう。
それにしては、小生はおじいちゃんだ。

この類塾の建屋とほとんど時を同じくして、京阪バス停、妙見口前の既設の建物を大改装していた。改装は鉄筋を入れて壁を補強し、仕切り壁で区切る大改装工事で、何ができるのかな?と思いながら、いつものウォーキング中に野次馬根性で見ながら通り過ぎていた。出来上がったのが、『馬渕教室 星田校』である。
先日は大きな看板も取りつき、塾らしくなった。ただ今、募集中のノボリ旗を掲げ、受付の女性社員も常駐している。こちらの写真はデジカメでパチリ。
 
 堂々の馬渕教室開校
  この星田に新しい塾が2つもできた。もちろん、我が家の娘たちが30年ほど前に通った星田村塾というのがある。それ以外にも小さな塾が数か所ある。
不思議なことは、少子化で子供が少なくなっているのに、なぜ、今、塾が流行るのか?である。
 教育水準が高くなったのか、学校で教えないから塾で補うのか、家で勉強するのが嫌なのか、家でやっても追いつかないのか? 疑問が絶えない。一体、教育の現状はどうなっているのだろう。
 橋下市長が知事の時はどういう発信をしていたか、よくは覚えていないが、大阪の教育水準は高くないという話を思い出した。学力テストで下位に位置していることを激怒されているようであった。
 数少ない中学生を取り合いして、塾が繁盛するという姿は何かがおかしい。

 中国や、韓国はものすごい教育熱で、親の収入をほとんど子供につぎ込むらしい。特に中国は一人っ子政策をやっているので、一人の子供にすべてを託すということになっている。家族の期待を一身に担い、親の思いを託された子供はけなげにも親の期待に添うように頑張る。子供たちの目が輝やいている。大変結構なことだと思っていた。

 しかし、それから10年、20年経ち、その子供たちが大学を出て、いざ就職しようとしても、なかなか思うような会社には入れないらしい。中国はものすごい人口の国であり、しかも大学は序列がはっきりと決められている。上海だけでも有名な大学がたくさんある。上海大学、同済大学、復旦大学、上海理工大学、上海交通大学など大学で一杯だ。中国全体ではとても分からないほどだ。

 中でも有名で序列が高い大学は、北京大学、上海大学、同済大学などである。このような超一流の大学を出た人は官僚になり、優良企業に就職できるが、そうでない大学を出た卒業生はいわゆる就職浪人になって都会をうろつくことが増えてきた。親の願いを実現できず悩む青年がたくさん生じている。
そういう不満分子が尖閣諸島の日本国有化反対デモに参加し、暴徒になったり、不満のはけ口となる行動をする。
 高学歴社会が生んだひずみが生じ始めている。

 韓国も同様に、親の教育熱が非常に高い。サムスンやLG電子や現代自動車に入ろうとすると、専門力はもちろん厳しく問われるが、さらに英会話力はTOEIC850点以上などというとてつもない語学力を要求し、入社の条件になっている。もちろん一流大学でなければ入れない。

 中国も韓国も、子供たちにとっては強烈な競争社会で生き、これを克服しなければ勝ち組みに入れなくなっている。一部の勝ち組の人は豊かな収入を得て生活を保障され、大多数の人は貧しい生活から脱出することが難しくなる。大変なストレス社会になったものだ。

 そういう意味では、日本は学習塾の塾生の競争で、何かまだのんびりムードにあるような気がする。いい高校に入り、いい大学に入るところまで頑張る。
 大学に入った途端に弾けて(はじけて)、遊び放題になる。
大学に入ってから本当の知識や能力を吸収する一番、重要な時に遊ぶ。

 日本は中国や韓国とは少し教育のパターンが違うようである。
これから10年先に、このアジアの国々がどういう姿に代わり、それぞれの国がどういう立ち位置を確保しているか、じっくり見守りたい。

2月10日(日)
『維新する覚悟』を読んで

堺屋 太一著
文春新書
本体800円

 閉塞感が漂っている日本、阿部新政権が発足してわずかな光明が射してきた感がある。円安に振れて、株価が上がってきた。これは結構なことである。

 ただ、身の回りを見るとガソリンは160円に近くなり、灯油は18リットルで1850円となり、以前の灯油600円前後の時代と比べる値と3倍以上に跳ね上がっている。
 アベノミクスは思惑どおり物価2%上昇という目標どおり、順調に推移してくれればいいが、物価だけが上がり所得(給料)が増えなかった場合は国民はみじめなことになる。
 現状は各企業が、否応なしにグローバル、ボーダレスの状況下で世界中と戦っていることを考えると、人件費(給料)が簡単に上がることは考えられない。
そうなると物価が上がり、支出が増えるが、収入は上がらない、むしろ下がる要因の方が大きい。そんな状況が迫って来つつあるような悪い予感がする。

 お金は日銀のさらなる金融緩和で銀行は国債をじゃぶじゃぶ買い付けると、市中銀行にはお金がだぶつく。しかし、企業の投資意欲は国際競争の中で日本で仕事をしようという感覚が鈍いので、国内の工場に投資する意欲が薄い。 
 そうなれば余ったお金をどう有効に使うのか?
民間では限界があるので、道路やダムやその他の公共投資に向けられることになる。そうなれば、『コンクリートから人へ』と舵を切った民主党時代とは全く逆向きに流れる。以前の自民党時代に戻る。
 自民党は以前のような無駄な公共投資をするつもりはないと言い切っているが、いったん、お金を掴めば、自分の都合のいいように選挙区や党に有利なように使うのは自明である。また、公共投資は必ずしも悪いわけではないが、役所(省庁)や官僚たちのための無駄遣いが必ず発生する。
それはなぜか?

本書は、明治維新、太平洋戦争敗戦を『維新』と呼び、この二つに加えて第三の維新を起こそうという提言、発想で書かれている。
堺屋さんは以前から、『団塊の世代』や『油断』など名著があり、小生が最も好きで同感できる人である。
 お年の割に考え方が非常に改革的で創造的な方で、万博以来、その考え方の方向性は常に一貫している。
大阪維新の会の最高顧問を務められたり、橋下市長の最高のブレインになっている。世の中の単なる批判や、評論家ではなく、これからの日本が歩むべき方向性を正しく示していると思う。

 改革を行うには、現体制を否定したり、壊す必要がある。
それには大きな既得権益の集団である省庁や官僚や、それにつながる国会議員や地方議員や、業界団体など様々な軋轢をはねのけて取り組まなければならない。その反対派(現体制)の確固とした体制や仕組みを崩すためには、ものすごいエネルギーが要る。橋下市長は大阪維新の会の代表として、今までこの戦いを繰り広げ、推進してきた。橋下市長のキャラがなければ、途中で既に挫折していただろうと思う。彼の意志力、体力の強さに敬服する。

 日本は今、『第三の敗戦』を迎えている。このままでは日本が持たない。世界の弱貧国に成り下がってゆく。それを持ち直すためには、公務員改革を断行し、有能な官僚が省益のためでなく、国家国民のために働くような人事制度や仕組みに再構築しなければならない。官僚は超優秀な人たちである。ただ、所属する組織(省庁)の在り方や、人事制度がまずいため、その有能な力を自分の省益中心にどうするかという発想に躍起となり、力が国民の方向に向いていると言えない。まず、官僚の人事を変えることにより官僚機構を解体し、そして、中央集権の象徴である霞が関の縦割り行政を解体し、地方に大幅な権限を委譲し、中央の霞が関の役割は国家の問題に搾る。

 そして地方には道州制を導入し、小さな区割りをなくしてダブった地方行政の無駄をなくする。そして地方の特色を生かした行政を行い、全国一律の行政ではなく、それぞれ特徴がある地方自治を行い、地方の活力を高める。

 今のままでは東京一極で、東京だけが栄え、地方はすたれる一方である。
そして地方に根づいた新しい文化や産業を育成する。人材も育てる。そのためには霞が関で全国一律の膨大で、細部に亘る規制を撤廃し、地方に権限を大幅に譲る。地方は自己責任で必要最低限の独自の規制を定めればいい。

 そうすれば地方が必要な最小限の事業だけ行い、無駄遣いが無くなる。
財政が再建できる。今、財政再建のための旗印として国会議員の歳費削減をこれ見よがしに叫んでいる議員がいるが、国会議員の歳費をいくら下げても国民一人当たり年間、100円位にしかならない。
 その気持ちは大切だが、根本的な課題をしっかり見極めて取り組まなければ、この国の将来が危うい。そしてそう多くの時間が残されていないのである。
 
 大阪維新の会は、そういう国家の危機を地方から改めようという動きである。

 民主党は3年前の総選挙前にそういう意気込みでマニュフェストを造り、『コンクリートから人へ』、 『政治主導』で取り組もうとした。その目指すところは正しかった。しかし、強力な悪賢い官僚と頑固な省庁の壁を壊せなかった。
 いや、壊すどころか、役人を排除しようとしたので、役人にそっぽを向かれ、たちまち、自分たちの行動が出来なくなってしまった。
 役人は使いこなすことが大切で、排除することが政治優先ではない。民主党はこれをはき違え、誤った政治優先を行ってしまった結果、無残に敗退した。
 
 直接、中央突破をできないので、地方から中央に遡ろうというのが橋下代表の考えである。これは明治維新が土佐や長州(山口)や薩摩から維新の志士が排出したのと似ている。

 政治を立て直し、霞が関、官僚機構の再構築、業界団体、既得権益者の硬い仕組み、規制を打破しなければ、本当に住みよい日本が生まれないだろう。

ぜひ、この本を読んで少しでも多くの人が現状を理解して、政治から直してゆきたいものだ。


1月24日(木)
『日本型リーダはなぜ失敗するのか』を読んで

  最近、決断できない、現場を知らない、責任を取らない、そんな指導者(リーダ)が増えている。日本はこの数年間、首相がごろごろ変わり、決まらない政治に甘んじてきた。阿部新政権はどうか、もうしばらく見ないと分からないが、期待は持てそうな気がしてきた。民主党が政権を取り、与党の苦しさも理解したので、しばらくは何もかもに反対するとか、与党の揚げ足取りをすることを自重すると言っているので、自民党はしばらくやりやすいだろう。
 ところで、たまたま書店で立ち読みしていたところ、半藤一利(はんどう かずとし)さん著の『日本型リーダはなぜ失敗するのか』が目に留まったので買って帰った。
文春新書で定価780円+税、
大見出しは下記のとおり。
 第一章:「リーダシップ」の成立した時
 第二章:「参謀とは何か」を考える
 第三章:日本の参謀のタイプ
 第四章:太平洋戦争にみるリーダシップT
 第五章:太平洋戦争にみるリーダシップU
となっている。

 日本型リーダはなぜ失敗するのか、決断できない、責任を取らないリーダはなぜ生まれるのか。太平洋戦争のエリート参謀の暴走を許したものは何か。参謀とリーダの役割の違いは何か。日本のリーダの源流をたどり、太平洋戦争での実際の指揮ぶりをつぶさに点検する。今こそ歴史に学ぶ姿勢が問われている。

 著者は、長年『日本近代史にみるリーダシップ』と題した講演を行っている。
その講演活動を通じて、高度成長期のリーダシップ論に言及し、現在の日本が低迷している様子に接し、日本人の独特のリーダシップのありさまに警告を発している。  かつての太平洋戦争の際、日本軍のトップがいかに決断し、戦争を遂行したのか、アメリカやイギリス軍と、どういう作戦の違いとして現れたのかについて書いている。
これを読むと、日本は負けるべくして負けたと言える。それは作戦の失敗、リーダシップの幼稚さ、参謀とリーダの役割の未熟さなど要因が上げられ、加えてアメリカとの圧倒的な物量の差が敗戦を決定づけたと言える。

 日本人は独特のものの考え方を有している。それは戦前、戦後を通じて変わらない。だから、かつての陸海空軍のありようを知ることで、日本人そのものを知ることになると指摘している。

 陸軍の「軍人勅諭」の守るべき五つの徳目は、『忠節、礼儀、武勇、信義、質素』であり、海軍の「五省」には、『至誠に悖るなかりしか、言行に恥づるなかりしか、気力に欠くるなかりしか、努力に憾みなかりしか、不精に亘るなかりしか』ということを掲げ、軍人の日常行為の指針を示した。これは『至誠、礼儀、信義、気力、質素』などという日本人の考え方や、サムライ精神というか、うるわしい日本人の品性そのものを示している。それこそが日本型リーダシップと言えるかもしれない。
 過去の日本近代史や太平洋戦争の負の遺産から、『真のリーダシップとは何か』を学ぶことは愚かなことではない。

 本書を読んだ感想は、日本人は独特の考え方を持っている。大きくはみ出した考え方や発想をする人も時々存在するが、そういう人は極くまれで、そういう考え方の人は周囲から疎まれ、排除され、潰される。本当に行き詰まった際は、大転換しないと解決しないにもかかわらず、『過去の栄光や歴史にこだわり、同じことをすれば成功できる、成功できるはずだ!』という考え方に流れる。これが日本人の気質になっている。歴史を変えることに躊躇する体質は、日本古来からの歴史を見ても分かるとおり、万世一系の天皇であり、外国からの侵略を受け、体制が変わったことがない島国という地形的事情からくる特殊性だろう。個人が独立した人間が多い欧州諸国とは違う気質を持っている。聖徳太子の和をもって尊しとするという言葉も、日本人の相互の関係を示している。何か突拍子もないことをやったり、他人と違う意見を発することが奇異な感じに受け取られる。農耕民族の特性だろう。少し話がそれたので、また、元に戻す。

 過去の栄光の例として挙げられているのが日露戦争の大勝利である。当時、日本の国力の10倍もあるロシアと日本海で戦い、ロシア帝国のバルチック艦隊を撃滅し、見事に大勝利を収めた。その結果、乃木大将は『神』になった。その勝利に酔った。
 この日露戦争で勝てた要因な何か、勝ったプロセスは何かを整理し、後の戦争に備え、勝つ戦略としてまとめ上げる作業などは全くしていない。『勝った!勝った!』のどんちゃん騒ぎで、国中お祭りだけに終わっている。せっかくのいい教材を次のために活用しようとしない。
 その後の太平洋戦争では、ハワイ湾奇襲作戦で米海軍をたたき、一気に有利な条件で停戦交渉をし、戦争を終結しようと考えた。日露戦争の夢をもう一度である。アメリカとまともに戦って勝てるとは誰も考えていなかった。しかし、アメリカ人に火をつけた戦争はドンドン拡大し、日米双方に大きな犠牲を払うことになり敗戦を迎える。

 その戦争中の連合艦隊司令長官や参謀本部に勤務する参謀たちの意思決定のしかたは、まさに日本人的思考であり、アメリカの臨戦態勢における組織の行動パターンやリーダシップの発揮の仕方とは全く違うことをつぶさに対比し、記述している。
太平洋戦争は負けるべくして負けたということである。

おもしろい話が紹介されている。
昭和41年、日本の1234社の社長にリーダシップをどう捉えているかアンケートをとった結果、1位はアイデア、2位は先見の明、3位はファイトとスタミナ、4位は人間的な魅力、5位は信用となっている。
当時のイケイケ・ドンドンの活気ある日本の姿が見えます。今の中国のようです。
今、同じアンケートを取れば、各社長からどういう答えが返ってくるでしょう。
多分、以前の項目とはずいぶん違うものになるでしょう。英会話ができるというような項目が上位に来るかも。

 昭和17年11月にガダルカナル島の戦いで第三次ソロモン海戦の記事があります。
その中で、アメリカのハルゼイ司令官が言った言葉に「日本人というやつは、一回うまく行くと、必ず同じことを繰り返す。また日本人は一戦終わると、すぐ引き上げて、戦果を徹底的に拡大することはしないから、たとえ、少しぐらい艦が沈んでも慌てる必要はない。最後には必ず勝てる」と。
これは真珠湾攻撃の際も、戦艦を叩き潰すまでは攻撃したが、その後、とどめを刺すために、アメリカの空母を探して、徹底的に攻撃するということをせずに、勝利に酔って帰還したことも同様な行為であると言える。
我々はそういう日本人の性癖を持っていることを十分自認しておかなければ、グローバル競争の時代には勝てないのではないだろうか。

そして、 『何とかなる』、『何とかなるはずだ』という発想で、物事が決まってゆく。これが日本人の気質である。これはいい面も持つが、究極の戦いをする場合はこの甘い考えは通じない。そして、失敗したり、戦いに負けても、なぜ負けたのか、何が原因だったのか、どうすべきなのかなど、きちっと原因の追究や反省をすべきだが、すべてが有耶無耶の内に終わってしまう。
その結果、大きな犠牲を払ったことも、生かされないのである。

 東日本大震災、その後の福島原発事故でも、未経験のメルトダウンを起こした。炉心が爆発するか分からない極限状態まで至った。こういう非常事態を経験しながら、少し状況が落ち着くと、原発の恐ろしさを棚上げし、電力不足を言い訳に、再稼働を進めようと、裏で躍起になって動いている人たちがいる。

 一方で、東電も政府も、だれの責任で事故が起きたのか、全く責任の追及がない。
『想定外』の津波で、という言葉で片付けようとしている。
確かに20mを超す津波は想定外だったかもしれない。しかし、原発を稼働させる以上、天変地異、何が起きようが少なくても放射能飛散事故につながらないような万全策を講じなければならない。それができないのなら、原発は動かしてはならない。今後も原発事故は必ず起きる。原発を動かす以上、大なり小なりの事故は必ず起きるのである。津波だけが想定外ではない。

 日本は地震国である。今問題になっている活断層が動いて、原発の炉心近くで、断層が起き、数mずれても大丈夫な対応をしなければならない。
 他の国とは立地条件が全く違うことをどれだけ考えて原発を推進してきたのか、不明な点が多すぎる。
まず『原発ありき、原発は安全だ』という神話を造り上げ、一直線に原発大国に突き進んできた。そのつけが回ってきている。
しかし、我々は、のど元を過ぎて熱さを忘れかけていないだろうか?

 本題と少しずれたが、日本人は何かにつけ起きた問題に対して、融通不断な考え方や行動をする人種である。
『まあまあ』『まあええやないか』『好きにしろ』『やってみなはれ』『なんとかなるぜ』『なんとかなるはず』『しゃーないな』などという曖昧模糊とした言葉が横行する。
リーダもそういう妥協を前提とした姿勢で対処することが多い。

 真のリーダとは、『目的を達成するため集中し、達成するまで気を抜かず徹して取組む、逃げない』そういうリーダでなければ物事は成就しない
そのためには、情報を分析し、部下とのつながり、部下の信用など大切な要素になる。興味が沸いた方は、本書を一読をして頂きたい。

〔追筆〕
『孫子の兵法』とは、「彼を知り、己を知らば、百戦危うからず」
将たる人間は、
 「智」;敵に優る智慧であり、敵に手を読まれず、敵の手の内を読みとる力
 「信」;心正しく、偽りがなく、部下の信頼を集める
 「仁」;思いやり、いたわり、人をいつくしむ心
 「勇」;ことに臨んでよく忍耐し、危険を恐れず為すべきことを実行する力
 「厳」;けじめをはっきりつける厳しさ
この5つをしっかり持つこと。



1月23日(水)
旧・海軍大学校の数学の入試問題解けますか?

 またまた、ある本を読みましたところ、おもしろい問題を見つけましたので、考えてみてください。その前にちょっと、一言。

 昭和初期、日本を牽引した精鋭の人達が陸軍、海軍大学に学び、そこで優秀な卒業生は参謀になり、軍の中枢で活躍したそうです。
 小生は戦中派ですが、生まれて間もなく終戦となり、戦争体験は全くないので、戦前、戦中の話は人に聞くばかりです。
 戦後生まれが圧倒的に増える中で、英才教育の在り方も変わってきました。

 最近、少子化現象で、子供が少なくなっていますが、我が家の近くに二つも新しい塾ができました。星田には以前から、『星田村塾』という田舎の塾がありました。娘たちが通った塾です。今もやっていますが、最近できた塾は馬渕教室(星田校)と類塾星田校の二つです。馬渕教室は、既存の建物を改修工事して2階建ての相当大きな建物です。類塾はJR星田駅から歩いて1分という直近の場所に鉄骨3階建ての新築です。
 以前からこの二つの塾はマイクロバスを運行して、中学生を送迎していました。

 少子化と塾の増加は何か相容れない気がしますが、ますます子供に教育費がかかり、親のすねは細るばかりです。
 子供に金をかけるのは、日本だけでなく、お隣の中国や朝鮮はもっと激しい競争をしています。塾で受験用のテクニックを学ぶのではなく、はやく『自分で考える教育』に方向転換してほしいものです。

 それでは、旧、日本海軍大学の入試問題の一つを紹介します。
 問題は、 『3を3回使って、その解が0から10となる数式を出せ』 です。
 例として、3+3+3=9  9は誰でもできます。 
 それでは9を除いて、0〜10まではいかがでしょうか?

 正解は、What's new(新着情報)のページに掲載します。
頭の体操をして見て下さい。
これができれば、あなたは大したものです。


1月21日(月)
B787の電池損傷事故に思う

 最近の話題は、アルジェリア南東部イナメナスの天然ガス関連施設で起きた人質事件と 、ボーイング社の新鋭機B787の連続トラブル、特にリチュウム電池の損傷、火災事故が話題をさらっている。

 電池には一次電池と言われている使い切りで寿命が来れば捨てる電池と、電圧が下がれば充電して再使用ができる二次電池がある。
 一次電池にはマンガン電池とアルカリ電池、水銀電池、銀電池、リチュウム電池などがある。
 乾電池と言われる単1、単2、単3、単4などはマンガン電池とアルカリ電池がある。以前はマンガン電池が多かったが、容量が大きく寿命が長い電池はアルカリ電池で、最近、中国やインドネシアなど海外で生産が盛んに行われるようになり、高性能のアルカリ電池が安く売られるようになった。この両者の見分け方は持ってみればすぐ違いが分かる。アルカリ電池はズシッと重い。これは余談。

 さて、一番高性能な電池はリチュウム電池で、このリチュウム電池には一次電池と二次電池がある。リチュウム電池は電圧が3ボルトあり、他の電池に比べて2倍の電圧を発生し、電池の電気容量はマンガン電池の約10倍もある。だから同じ電圧を得るには半分の個数で足りるし、容量が他の電池より大きいので、携帯機器(ケイタイ、スマホ、ノートパソコン、デジカメ、ムービなど)やEV(電気自動車)には大変重宝な部品である。
 
 リチュウムという材料は、金属の一種であるが、非常に還元作用が強く、水に入れると、水を分解し、酸化リチュウムになり、泡を吹いて水素を発生する。注意しないと、水素爆発する可能性がある。これは金属リチュウムの話。
 一次のリチュウム電池は金属リチュウムを使っているが、放電させるだけなので、特に問題はない。このリチュウムを二次電池に使う時に注意が必要になる。
 
 金属リチュウムを使うと危険なので、現在はリチュウムイオンという形で、金属リチュウムではなくリチュウム酸化合物を陽極に使っている。負極は炭素系材料を使う。
 それでも、充電や放電の電流、電圧を外部の制御回路で正しく適正にコントロールしないと、温度が上がり、膨張すれば暴発する可能性が残る。
 
 以前に、中国製のケイタイが爆発して、使用者が亡くなったという記事を読んだことがある。最近、製造方法が確立され、そういう心配はなくなったと思っていた。
 
 しかし、リチュウムは前述のように基本的には大変危険な材料である。
トヨタのプリウスが初めてハイブリッドカーとして開発された時、当時すでにリチュウムイオン電池は市場に出回っていたが、トヨタはあえて、リチュウムイオン電池を使わずに、性能が安定し、品質・信頼性の高いニッケル水素電池を松下電器から調達した。
これは安全第一に徹したトヨタのものづくりを端的に表している。もし、性能中心に考え、最先端技術を売り物にしたいなら、プリウス用の電池はリチュウムイオン電池になっていた。しかし、トヨタはその選択を取らなかった。
 その後、松下とトヨタは合弁会社を浜松市に造り、そこで一貫してニッケル水素電池を量産した。その高い信頼性のおかげで、プリウスは電池の問題を起こすことなく、ハイブリッドの覇者、いや、自動車業界の覇者になった。

 これが性能を追求し、先端技術を追い求めて、リチュウムイオン電池を採用していたなら、何%かの電池トラブルを発生させ、危険な車として販売の足を引っ張ったかもしれない。その後、トヨタは十分信頼性を追求したリチュウムイオンをプリウスのプラグインハイブリッドに採用しているが、この車は高価で販売数が伸びていない。
 
 話を戻すと、B787に使われているリチュウムイオン電池はユアサ・GSバッテリー製だと報じられている。リチュウムイオン電池はパナソニック(三洋電機)がトップシェアを握っている。海外ではサムスンがパナソニックとシェア争いをしている。
 日本メーカではSony 、東芝、NEC、ユアサ・GSなどがあったと思うが、Sonyはこの電池事業は売却するという話が出ている、それほど電池事業はノウハウと息の長い取り組みが必要な事業である。その他のメーカはEV(電気自動車)用の電池として、販売を伸ばそうと目論んでいる。ホンダのフィットハイブリッドは小生が愛用しているが、これもニッケル水素電池を使用している。しかいs、今年秋に予定されているフルモデルチェンジでは、リチュウムイオン電池を搭載し、燃費を現行車の30%アップを果たすと言われている。車や航空機のように軽いことを要求される電池はこれからリチュウムイオン電池に置き換わってゆくだろう。

 パナソニックはもともと、乾電池が圧倒的に強くて、ハイパーやハイトップやネオハイトップ、最近はエボルタなどの定番商品名でシェアトップを走っている。二次電池も元、三洋のエネループも含めよく売れている。これらのニッケル水素電池は一般市販して、簡単な充電器で再充電できるので、今もたくさん使われている。

 しかし、前述の携帯商品が大量に販売され、小型、軽量、高性能化が進むにつれて電池の容量も大きなものが要望され、ニッケル水素電池では対応ができなくなった。そこでリチュウムイオン電池が盛んに使用されるようになった。リチュウムイオン電池  そのものの製造ノウハウが確立され、品質や信頼性がよくなり、大きな問題が出なくなったと思っていた。

 そこに、降ってきたのが今回の『B787の電池が燃えた』という事故ニュースである。
航空機に使われる部品や材料は徹底した品質検査、信頼性追求が行われている。
タブーは『絶対煙を出さないこと』、『絶対火を噴かないこと』である。その大原則を破ったのであるから、これは最近にない大ニュースである。

 ジェット機は、巡航時は地上1万m以上を飛行する。この時の気圧は地上に比べてはるかに低い。気温は零下40度から50度まで下がる。そして着陸すると、地上の気圧になり、地上の気温になる。そういう温度と気圧の変化を常に受けている。旅行して気付くことは、トランクに入れていたペットボトルが凹んでしまうことである。そういう気圧の激変をリチュウムイオン電池の外箱や電極や、その間に充填されている電解質と言われる溶剤が、飛行回数に比例して繰り返し、繰り返し伸び縮みや加圧、減圧のストレスを受けることになる。地上とは全く違った過酷な環境の中で使われる。

 もちろん、ユアサ・GSバッテリーはそういう環境変化を考慮して、繰り返しストレステストをして、大丈夫だという判断をして認可されたものだと思う。
 しかし、評価試験で考えていなかった何か他のストレスがかかったのではないかとも考えられる。これからの原因追求の結果、何が要因か、注目している。
 
 B787はその他に初期不良がたくさん起きている。全く新しい設計になる飛行機で、全く新しい部材を大量に投入している機体なので、今後、まだまだ何が起きるか分からない。しばらく品質が落ち着くまで、この機体には乗りたくないような気がする。

 トラブルには燃料漏れもあった。これはどうも燃料バルブとそれをコントロールするソフトウェアのプログラムの問題だったらしい。こういう種類のトラブルは原因が分かれば、すぐ対策が打てる。対策すれば、まず問題は解決する。

 しかし、電池の問題は厄介である。
電池は電気を化学変化に置き換えて、充電したり、放電したりする部品である。目に見えない変化を大量の実験を繰り返すことで、見極める作業をしなければならない。
 ということは、何か対策しても、それを見極めるには膨大な実験、相当な時間がかかるということになる。
 
 B787を安全に飛ばすには、そう簡単に結論が出ないのではないだろうか?
同時に、ユアサ・GSバッテリは社内がひっくり返る大騒動になっていることと思う。
 しかし、沈着に実験をして、結論は万全の安全が確認できるまで急がないでほしい。


1月16日(水)
アベノミクスは成功してほしい。が・・・

 阿部新政権後、円安、株高になり、急激に経済指標が動いている。まだ、実体経済が良くなったという感覚は全くないが、株が上がり少し活気づいたように感じる。
 物の値段が下がるデフレは今まで経験したことがなく、お金をあまり使おうという気がしないのが問題だ。本来ならモノが安くなるので、それだけ買い易いはずなんだが。いや、今は特に買うものがない、満ち足りた時代になったのだ。

 近くの東寝屋川イズミヤの3階に100円ショップ、『ダイソー』がある。
店内が改装され、陳列が様変わりし大変美しくなった。これが100円ショップか?と疑うような展示になった。
 河内磐船の『やまや』の2階にも『ダイソー』が店を出している。こちらは店内の陳列棚がピンク色で、一層華やかな雰囲気である。売っている商品も、身の回りのいろんな雑貨があり『ええ-、こんなものが100円で売れるのか』というようなものまである。100円の価値を改めて見直す瞬間である。

 阿部総理は、デフレからの脱出を『金融緩和・財政出動・公共投資』の3本柱で、今までにない、思いもよらぬ規模で実施すると言っている。これをアベノミクスと呼んでいるが、この対策によって低迷する景気がよくなり、活気をとり戻せるか?考えてみる。

 このアベノミクスは『両刃(もろは)の剣』だとも言われる。
うまくゆけば、非常に結構だが、成果が出なければ日本は破たんするという意味だ。

 その理由は、アメリカも、欧州も、日本も、これ以上金融緩和ができないお金がじゃぶじゃぶの状態になっている。我々生活者にはそういう実感がないが、銀行の利息はタダ同然になり、『預けても利子がつかない』ということは、お金がだぶついているから、お金の価値がないからである。それならば円の価値が下がり円安になるはずなのが、今まで円高になっていた。何故か?この理由は日本の円よりもドルがさらにジャブジャブの状態になっていることを示している。紙幣を乱発してきた結果である。

 インフレはその逆で、お金の価値がどんどん下がるので、給料はどんどん上がり、すべてのモノやサービスの価格が上がってゆく。速くお金を使わないと、溜め込むと損をするという状態になるのがインフレだ。
今は、デフレで、商品やサービスの値段が下がっているのに、お金の価値が下がっている。お金がジャブついているからだ。これが従来のデフレとは大きく違う点である。
そういうデフレ下で、アベノミクスが有効と言えるのだろうか?

 さらに、今以上の金融緩和をするということは、何をしようとしているのか?
市中銀行の持っている国債などの債権を日銀がお札を刷って債券を銀行から買取ることになる。そうすると大量の紙幣(現金)が銀行に流れるので、その金が市場に出回る。銀行から企業に安い利息で現金が回り、企業は投資がしやすくなり、資金繰りが楽になる。企業活動が活性化する。社員の給料も上がり、景気がよくなるというストーリらしい。理屈は分かるとして、少しおかしな感じがする。なぜだろう。

銀行に現金が潤沢あると、企業に安い利息で金が回るところまでは良しとしよう。
しかし、企業は今、お金がなくて困っているのだろうか? そういう企業も現にあるが。

はたして、今、企業はお金があれば、経営課題が解決できるのだろうか?
各企業が抱えている経営課題は何なのか?
その解決策を打たなければ、お金を準備しました、だから十分活用して下さい!とお膳立てしても解決できない。

日本の企業は従来、製造業が頑張って、輸出を伸ばし、そこで稼いだ金を再投資して規模を拡大し伸びてきた。製造業が儲かると、従業員の給料が上がり、所得が増えるので、その周辺の店も潤う。さらに材料や部品を供給するメーカの取引も拡大し、関連産業も伸びる。そういう相乗効果で日本は世界第二の経済大国になった。

しかし、現状を考えると、世界はグローバル化し、ボーダレスになった。IT(インフォメーションテクノロジー)は瞬時に世界に情報を発信する。そういう時代になった今、どんな事業であれ、事業が成り立つかどうか、仕事をして収支が合うかどうかは日本国内だけで考えても問題は解決しない。
 世界を見て、世界の中で事業がどういうやり方なら成り立つのかという課題に対して非常にクリチカルな解を求めなければならないところに来ている。
 グローバル化した今日、世界中には日本の10分の一とか30分の一というような賃金で働く人たちがいくらでもいることである。一方、製造業の工場の仕事は、依然の工場のものづくりの姿から、『デジタルものづくり』が進み、極端な言い方をすれば、『だれでも、どこでも、どこの国でも』、十分いい品質のモノが造れるような時代になった。
これがものづくり大国、日本にとって大きな課題になっている。そういうものづくりの環境に変わってしまったのだ。このことをしっかりと認識しなければならない

 そうなれば、日本国内で高い給料を払い、日本国内でモノづくりを続けなければならない価値や理由は何なのか?
あえて日本で造るなら、商品の価格は高くなり、市場競争力をなくすることになる。海外から入ってくる安い価格の商品と太刀打ちできなくなる。これは経済原則だからどうしようもない。その証拠に、衣類はすべて中国製やベトナム製になってしまった。
 以前、中国製の衣類は縫製が悪く、すぐに型崩れすると言われてきたが、ユニクロに代表されるように、今は全くその問題がなくなった。
 縫製は日本のジューキや蛇の目の工業用ミシンを中国の工場に何千台と並べて
巨大な工場で、廉い賃金で、きちんとした品質を保ちながら衣類が大量にできる時代である。衣類以外の商品もおおむね同様なことが言える。
 家電商品も同じこと。特にデジタル家電と言われるAVC(オーディオ、ビデオ、テレビ、パソコンなど)は半導体(システムLSI)さえあれば、どこでも製造できる時代である。
 ものづくり現場、製造現場が変わってしまった。
 以上は端的な話であるが、近い将来、すべての企業、業種がそういう方向に進むことは自明だ。だから、各企業は高い賃金の日本を脱出して、中国や東南アジアに海外移転を進めてきた。

これは企業にお金がなかったからではない。
むしろ、お金があったから、その金で海外移転を進めたのである。
製造業が生き残るための自衛策なのである。
その結果、日本の雇用がなくなり、リストラの風が吹き荒れ、賃金が下がり、非正規雇用が増え、世の中不況になった。

 要は、日本で事業をしても合わないことが原因である。
日本で企業経営して、収支が合うためにどうすればいいのかを考え、その解を求めて手を打たない限りはこの不況は脱し得ないのではないだろうか。

 巨額の公共投資をすれば、一部のゼネコンは恩恵を受け、自民党に多額の政治献金がもたらされることは確実だが、それで今、各企業が抱えている、先に述べたグローバル経済下の課題を解決する解になっているのか、はなはだ疑問に感じる。

 国は既に巨額の借金経営をしている。すべての国民一人当たり700万円以上の借金になっている。この額は世界に類を見ない巨額の借金であり、この上にさらに巨額の金を一部ゼネコンに投入しようとしている。
そういう訳で、国内だけを見た経済対策が功を奏するか疑問が多い
 アベノミクスは失敗すれば、国が間違いなく破綻することになる。そういう危険性が非常に大きい。だから、両刃の剣であり、賛否両論が渦巻いている。

 日本は、世界でもNO.1の成熟化した社会、超高齢化社会になった。
成熟化したということは、高給取りの人がたくさんいるということだ。この高い給料が世界の中で、それに見合う生産性になっているのかを考えなければならない。
 高い給料がほしいのなら、世界中を見て、それにふさわしい高い生産性を上げなければならない。今までこれだけもらっていたので、給料は下げないで・・・という理屈はこれから成り立たない。給料が下がるのが嫌なら、給料に見合う生産性を上げるような働きをしなければならない。
 会社は慈善事業ではないのだから、これは当然のことだ。
そういう視点で、会社と労組や組合は十分腹を割って話し合いしなければ企業は成り立たない。しかし、そういう気配は感じられない。
 社員や組合は自分の主張はするが、自分の生産性が世界と比較してどうかという視点を持たなければ、このグローバル化した成熟化した日本の企業の経営課題の解にならない。だからいつまでもリストラの連続が際限なく続く。しかも、身売りできる過去の資産を食いつぶしながら。縮小均衡の一途を辿っている。

そういう見方からすれば、アベノミクスは成功することが難しい気がする。

 政治は、今、起きているグローバル、ボーダレスの動きの本質を正しくつかまないと、以前のように、日本国内の問題として、札束で勝負ができる状況ではないことに早く気付くべきだ。


1月12日(土)
お正月に読んだ本
『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』

黄 文雄(Kou Bunyu)著

1938年台湾生まれ、1964年来日、早稲田大学商学部卒、
徳間書店発行、
本体1000円+消費税50円

 お正月休みに、一冊の面白いタイトルの本と出合った。それが本書である。

 一衣帯水などと言われる日中、日韓だが、このところ、波風が激しくたっている。中国政府の外務省の報道官の会見をテレビで見ると、毅然とした高圧的なしゃべり方で、どういう場合にも、「わが方は正道を行っている」「悪いのは相手だ」という態度で話している。
 韓国は大統領が鳥島に上陸するというパーフォーマンスをやってのけた。軍の部隊までいつの間にか上陸させ、常駐してしまっている。自民党時代にである。

 そういう両国の出方に、日本はどう立ち向かうのか? 
民主党政権は脆弱な体質だったのか、経験不足だったのか?よく分からないが各方面からいろんなことを言われ続けて敗退した。
 変わった自民党は経験も豊富で、この3年間の野党時代は自分たちならすべてうまく処理できたのに、という言い方で情宣活動した。
 それなら、これからこの厄介な領土問題をどう改善し、解決するのかを見てみたい、という思いがあった。そういう時に本書を見つけたので、一気に読んだ。

 この本の著者は台湾出身の黄さんで、日本びいきなのかどうか分からないが、読み進めると、日本人が好き、日本びいきという単純な話しではなく、史実をきちっと押さえながら書かれているので、過去のいろんな歴史上の出来事に対して、ああそういうことだったのかと再認識させられる部分が多い。あまり語られていなかったことがよく分かる。

 世の中、一方向から見るのと、他の方向から見るのとでは、全く違った形に見えるものである。自分の言い分がすべて正しいと絶対に説を曲げない人や国家と対峙した時の対応の仕方は、十分話し合ってお互いに理解し合うという努力をすることが大切だと、テレビなどで評論家がよく言うことである。しかし、そういう努力をしても、相手はそういう気持ちを全く持っていないなら、お互い理解しあうなどということはあり得ないと感じる。
 中国や韓国の『誤らない、自分は常に正しい』という態度は彼らの長年の歴史から国民性なっているからだと思う。

 そういう、何となく今まで抱いていた概念や、ステレオタイプ(紋切型)の見方かもしれないが自分なりに持っていた思いが、本書を読んで、なるほど・・・と感じることが多かった。

 中国、韓国に関する本はたくさん出版されているが、本書は一読する価値がある。この本を読んで、中国や韓国を旅行すると、今までと違った知識や見方を広げることができるだろうと思う。

 カバーに書かれている内容を見ると、
「絶対に謝らない中国人」「韓国人のウリナラ起源自慢」
理解不能な中韓のメンタリティ・考え方に日本人はどう対応すべきか?
 本当は愛国心がない中国人
 なぜいつまでも中国人は民主化できないのか
 中国の属国だった過去に対する韓国人の劣等感
 国内の貧富の差が広がり、世界で韓国人売春婦が急増中
 パクリ文化も大中華と小中華ではスケールが違う
 韓流歴史ドラマはほとんど史実とは無関係
 大中華と小中華に根づいている差別意識の源流
 本当は古代から日本に憧れ続けていた中国と韓国

などと紹介されている。

 本書の中身を少し紹介すると、『180度違う日本人と中国人』の中でこう記されている。
日本人と中国人の違いは、外への関心もその一つである。日本人は外への関心、ことに異文化への関心は昔から強かった。もちろん、今でもそれは変わりがない。そうした日本人にくらべ中国人は案外と外の世界のことに関心も興味もなかった。だから誤解も曲解も多い。

中国人の民生(国民性、民族性)については、100年あまり前に、アメリカ人宣教師アーサー・スミスが著した『支那人の性格』という名著がある。その中で、中国人を「曲解の名人」と呼んでいる。外への関心があまりなかったのは、中華思想・華夷思想があるため、もともと優越感が強く、外の世界を知る必要がないと考えていたことも理由の一つだ。そうした優越感は、中国人が有史以来、たびたび北方の夷狄に征服されても変わらなかった。逆に、夷狄が中国の文化に征服されたと誤解・曲解するから、ますます思い込みが強くなっていく。
(中略)
紀元100年に書かれた『説文解字』という書物によれば、中華以外の夷狄はすべて「禽獣」とみなされた。約700年後の中唐時代に韓愈が著した『原人』になって、やっと夷狄は「半人半獣」に進化したきたように認知されている。しかし、明末清初の17世紀になると、たとえば、明末の大儒教家・王夫之(おうふうし)の『続通鑑論』では、夷狄はやはり禽獣とみなされ、漢人の優越感は異人に対しては「人種差別」どころか「人獣差別」にまでこうじていた。
今日に至っても、中国の文化人は、非漢族に対しては古代の優越感と変わっていない。
その異常な優越感が「少数民族」(非漢族)とのいざこざの一因ともなっている。
(中略)
国民性というものは時代によってよく変わるものだが、中国人だけは例外で、有史以来、ほとんど変わっていない。それは儒教思想の尚古主義からきたものであるが、その超保守的な性格は、伝統主義からくるもので、万古不易に近い漢字そのものが超保守のシンボルである。・・・
(中略)
中華史観という中国人の歴史観にもっとも強く影響しているのは、正史記述法のモデルとなっている『史記』で、皇帝中心史観の代表である。歴史とはすべてが皇帝のための歴史で、それ以外の列伝などが付記されているだけである。後世の教訓と易姓革命の正当性を主張するためのものだから、きわめて「政治的」であり、しかも創作も多かった。一言で言えば、「前王朝は悪かった」という記述に尽きる。
『史記』以外には、孔子の『春秋』がある。いわゆる「大義名分」と「尊皇攘夷」が目的の歴史記述で、「大義」とは建前ばかりで本音を隠すためにあるので、歴史捏造の根源となる。
『春秋』をモデルとしたのが、宋の司馬光の『資治通鑑』である。「正統主義」に執着し、「華夷の別」を強調する中華思想のかたまりと言える。その中華思想、史観、史説を補強し、背後を支えているのが、「四書五経』を再注釈した新儒学の朱子学である。・・・・


 なかなか読みごたえのある本で、一読では難しいかもしれないが、中国はそれだけ奥が深いのだろう。有史以来、黄河、長江流域での国家の盛衰、北方民族や西方民族の流入による王朝の入れ替わり、そのたびに繰り返される王朝血族の殺傷、そして中国の一属国として耐えてきた朝鮮民族、そういう歴史の背景があって現代の中朝がある。本書では大中華と小中華という表現が随所に出てくるが、中国と朝鮮のことである。

 そういう隣国と、万世一系の天皇を頂いてきた日本とは全く民族性や国民姓が違うのは当たり前のことだ。「和をもって尊しとなす」という聖徳太子の言葉は日本人の国民性を端的に表している。そういう考え方は中朝には全く通用しない、理解されない。

この本は再度、読み返してみようと思っている。
かなり著者の思い入れもあるような気もするが、冒頭に書いたように、随所に史実や参考資料として書物などを取り入れて、客観的な裏打ちもしながら記述されている。
興味のある方は是非一読をおすすめする。
そして、中国や韓国に旅行すると、なるほど!!と気づくことが増えるはずだ。

本年もよろしく。


2013年1月1日 
2013年 元旦に思う

  昨年末まで、思いつくままに綴ってきた随想記も、年が改まり心機一転、今年も書いてみようと考えている。

 『一年の計は元旦にあり』という諺があるとおり、何事も年の初めにしっかりした計画を立てて取り組みたいものだ。
 しかし、人間は楽をしたいという潜在的な気持ちがあり、なかなか立てた計画を達成することが難しい。途中で腰が折れることが多い。

 その代表的な例が日記である。すぐに忘れることを『三日坊主』というが、決意したことを続けることの難しさがよく分かる。
 これは個人においても、仕事においても、会社という組織にも同じことが言える。
会社は年度の初めに、経営方針や年度計画を立て社長が社員の前で発表する。この方針発表会は厳粛な内に行われるので、その時は全員、よしやろうという気持ちになる。そうでなければ方針発表会の意味がない。

 しかし、一日、二日、三日と日にちが経つにつれ、次第にその緊張感がなくなり、計画のことは頭から消え去り行動が伴わなくなる。
個人の日記の三日坊主と同じことだ。

 自分や、会社がやろうと計画したことを一年間やり切るためにどうしたらよいのだろうか?
 この課題に対して正解があれば、それは百万両に値する。
 松下幸之助創業者は『経営のコツ、ここぞと分かれば百万両』と言った。同じような意味合いだと思う。

 立てた計画をやり切るための方策はあるのか?
 一言で言えば、精神力の強さと言えるだろうが、その精神力はどうすれば生まれ、どうすれば維持できるのかだ。

 計画や目標というものは、実行するには努力や苦労や痛みが伴う。遊んでいて楽して計画を達成できるものではない。
 だから、その計画を達成した時の満足感、充実感、自己実現、レベルアップ、あるいはその達成で得られる報償としての給料アップや昇進などを期待しながら取組めばいいのではないか?
今流にいえば、モチベーションの維持である。
 
 自己欲望を満たす何かを、計画を達成した際に得られるという思いが、心の中のどこかに置けば、それが表面的なものとして頭になくても、深層的な心の中に潜んでいれば、取り組み意欲が自然と生まれてきて、意欲が増すものだと思う。

人の自己実現や上昇意欲を掻き立てる人間の性ではないか?
それをうまく使い、時々、刺激を与えることでモチベーションの維持ができる。